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「年寄りの家」から「いきいきセンター」に変わった話

家の最寄り駅に、白地に黒い字でデカデカと「年寄りの家」と書かれた看板が立っていた。あまりにそのままな表現なので、私はその看板をとても気に入っており、毎日通学するたびに見ていた。

ところがあるとき「年寄りの家」と書かれた看板は、同じデザインのまま「いきいきセンター」になっていた。古臭い「年寄りの家」から今風の「いきいきセンター」へと名前が変わっていたのである。おそらく気にする人はほとんどいなかっただろう。

たったこれだけのことだったが、この出来事は私の心に深く残った。というのも、この変化がいかにも当世を表している感があったからである。

世の中、「一億総活躍社会」だの「女性の活躍」など、ポエムに溢れている。先月発表された国の第2期まち・ひと・しごと総合戦略には

女性、高齢者、障害者、就職氷河期世代の方々など誰もが居場所と役割を持ち、活躍する地域社会をつくる(内閣府2019:69)

と書かれている。女性、高齢者、障害者、就職氷河期世代の方々、というのを同列にならべるのはなんだか可笑しい。「ポエム化する社会」というのは少し前に流行った論点なので今更何かを付け加えようという大層な思惑はないが、一個人として違和感を覚えている。

冒頭の「年寄りの家」から「いきいきセンター」への変化は、世の中から「年寄り」あるいは「老い」というものを消し去ろう、あるいは見えにくくしようとしている意図が背後にあるように私には見えてしまう。「いきいきセンター」は相変わらず老人ホームではあるのだから、つまるところ老人もいきいきとしなさいということなのだろうか。それは「年寄り」と言われるのが嫌な若々しい老人にとっては歓迎かもしれないが、私のように若いにもかかわらず覇気がない人間などはバツが悪く感じてしまう。それに、想像を最大限まで働かせると、社会が「老い」を直視しなくなっている証左にも見えてくる。

現代の消費社会は、「若さ」を要求する。「若さ」とは自分で自立(自律)していることであり、動き回る事ができ、旺盛に消費し、労働に勤しむ状態である。しかしながら歳を取れば、ほとんどの人はひとりでは生きて行けず、医療費は膨大にかかり、労働はできない。社会が求める「生産性」はゼロである。若年、あるいは壮年の人々は、自分がいつか老人になることを心のどこかで重荷に感じつつ、どうせ先のことだからと見てみぬふりをしている。地下鉄に乗れば、老人たちは居心地悪そうにしている。そして「キレる老人」が若者とバトルしていたりする。

かつて老人は「長老」などとリスペクトされていたが、現代は少子高齢化で老人の割合が増え、テクノロジーの発達で老人の尊敬の根拠であった「経験」が価値の低い(とみなされる)ものとなったため、特に人付き合いのない都市部では世代間の不公平感も背景として、尊厳が脅かされている部分があるのではないかと思う。「老人の家」から「いきいきセンター」という名称変更の背後には、もはや「いきいきしている」高齢者は長く生きている人間であって「老人」ではない、いやあってほしくないという社会の「願望」が込められているとみなすのは考えすぎだろうか。

この先、再生医療などが極度に発達して老化という問題が解決してしまう可能性はゼロではないにせよ、そうでない限り「老化」という問題は個人にも社会にもつきまとう。つまり、現状誰もが最後は高齢者になるのである。それを「生産性がない」などと言って排除してしまうのは、結局はまだ老人ではない私達の首を締めることになるのではないだろうか。また「いきいきセンター」などと言って「老人」の存在自体に蓋をして、老化を認めないことは、いびつな社会構造を支えることに組みしてしまうのではないか。

結論的には、できる範囲で少しずつ、ご老人をリスペクトしていったらもっと生きやすい社会になるんじゃないかな、というお話である。


引用文献

内閣府(2019). 「第2期まち・ひと・しごと創生総合戦略」, https://www.kantei.go.jp/jp/singi/sousei/info/pdf/r1-12-20-senryaku.pdf (2020.1.25閲覧).

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