プレトニョフ&東フィル(2022年3月10日)感想文

 少し時間が経ってしまいましたが、去る3月10日にサントリーホールで行われた、ミハイル・プレトニョフ氏の指揮による東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いた雑感を書き留めておきたいと思います。プログラムはベドジフ・スメタナ(1824-1884、チェコ*)の6曲から成る連作交響詩《我が祖国》を、休憩を挟んで前後半に3曲ずつ演奏するものでした。

 この公演はもともとコロナ禍の前から企画されており、何回もの延期を経て実現しましたが、悲しい皮肉にも目下のロシアによるウクライナ侵略の状況下で、ロシア人指揮者・演目が《我が祖国》ということで、複雑な意味がまとわり付く演奏会になってしまいました(なおこの公演にはガルージン駐日ロシア大使の一行が来席しており、アンコールとして演奏された《G線上のアリア》を聴いて硬い表情で速やかに会場を後にした、という目撃情報がSNS上に寄せられていました)。

 政治と芸術の関係について我々音楽家は決して目を背けるべきではないと考えますが、あくまで今回の記事の中では、演奏の音楽的な内容についての感想を述べたいと思います。予めお断りしておくと、以下に書く感想は総じてかなり批判的なものになります。しかしそれはあくまで私個人の受け取り方であり、他の誰かの感動や好感を否定する意図は全くありません。

 第1曲《ヴィシェフラド》冒頭の2台のハープのソリを聴いたときは感動しました。ところがそれに続いて登場したホルンのセクションは何やら響きがグシャッとしているようで、あまり美しいとは感じられませんでした。もしかすると、4パートに分かれているホルン群に各パート2人・計8人の奏者という編成で演奏したこととも関わりがあるのかも知れません。8人体制だと確かにフォルテ(強奏)のところでは確かに迫力が増しますが、反面パートとしての響きをまとめるのが難しくなっていた可能性があるでしょうか。とはいえそのようなことは当然承知した上でこの編成を採った、長所に賭けたということだと思います。

 第2曲《ヴルタヴァ》——ドイツ語風に《モルダウ》という呼び名で日本でも非常に親しまれていますね——はかなり遅めのテンポで演奏されており、音楽の流れが淀みがちに感じました。テンポの設定はいつも難しい問題です。絶対にある一通りの、メトロノームの一つの数値にピタッと当てはまるテンポで演奏しなくてはいけないということはありませんし(不可能でもあります)、奏者の特徴や技量によっても適切なテンポは異なります。今回の演奏についてはあまり適切なテンポ設定ではなかったと思います。

 テンポの問題と共にしばしば(全曲を通して)気になったのはリズム感です。ここで言うリズム感とは、単に「算数的な」意味で発音のタイミングが合っているかどうかといったことではなく、あるリズムがもつ「イントネーション」や「手触り」——そのリズムが含有する表現力のポテンシャル——をどれだけ引き出しているかという問題です。率直に言って、リズム感が良くない演奏に感じました。それがプレトニョフ氏のディレクションによるものなのか、東フィルのもともとの特徴によるものなのかは分かりませんが。

 これに付随して、「指揮を見る」ということについても考えさせられました。東フィルの奏者の方々はプレトニョフ氏の指揮を非常に良く「見ていた」のだと思います。しかし——パラドクシカルですが——それゆえに合奏がどこかぎこちなくなる部分があったのかもしれません。オーケストラは奏者一人一人が自律的な音楽家であることを前提とした上で、指揮者は合奏の「調停者」として尊重されるべきでしょう。つまり奏者は指揮棒の先に結び付けられた操り人形ではなく、あらゆるリズムに関して指揮棒を伺いすぎるのもまた好ましくないことです。

 更にもう一つの問題は旋律の歌い方(或いは歌い回し)でした。特にフォルテやたっぷり歌い上げるようなところで、全ての音一つ一つに重みを掛けるあまりに抑揚に乏しいように感じてしまいました。重く弾かれる音と軽く弾かれる音の差があることで、旋律が自然な呼吸で語られているように聞こえます。たとえフォルテであっても、それは軽い音が存在してはいけないという意味ではありません。理髪師が髪を梳いて(=間引いて)髪型を整えるように、西洋クラシック音楽では全ての音を濃密にするより、あえてエネルギーを減らすことで音楽の輪郭が明瞭になることがあるのです。もちろん、どの音が重くどの音が軽いかを適切に設定することは、先に述べたリズムのイントネーションや、和声的な動き等と関連しています。第3曲《シャールカ》——個人的には一番気に入った曲です——中盤のクラリネットのソロが最たる例で、とても丁寧に歌い上げていることが理解できたものの、音楽のエネルギーが流れる方向が見えてこず混沌とした印象を受けました。

 第4曲《ボヘミアの森と草原から》は、今回の演奏の中で最も良かったのではないでしょうか。ポルカの部分のリズム感にはやや物足りなさがあったものの、様々な情景を描写した変化に富んだ音楽のコントラストを楽しむことができました。また15世紀のフス戦争におけるフス派の戦士の伝説を描いた荘厳な第5曲《ターボル》及び第6曲《ブラニーク》では、編成や前述した演奏の特徴・傾向が部分的には良い方向にも働いていたと言えます(とはいえやや重すぎに感じました)。

 今回の演奏は総じて、物理現象としての音のすごみ・迫力という意味では強い刺激だったと思います。音楽的には様々な面で生硬に感じました。しかしプレトニョフ氏と東フィルのこのプログラムに掛けたであろう熱意とこだわりはひしひしと感じられましたし、このスメタナの《我が祖国》という作品の偉大さが伝わる演奏でした(これは演奏において非常に重要な点なので強調しておきたいところです)。今後も機会があったら東フィルの演奏会に行ってみたいと思います。

*スメタナが生きていた当時、チェコ(ボヘミア)はオーストリア帝国(のちにオーストリア=ハンガリー帝国)の支配下にありました。

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