“伴奏者”としてのプライド

 伴奏をするピアニストの中には「伴奏」という言葉に対して否定的な感覚を持っている人もいるようです。その背景にはどうも「伴奏」という言葉のニュアンスが「添え物、主役にくっ付いているおまけ」のようなあまり好ましくないものという観念があるでしょう。それは国語的に言って必ずしも妥当ではない一方で、実際に「伴奏(者)」が軽んじられる文脈と共にこの言葉が発せられる場面に何度も遭遇すれば、そうした忌避感が生まれてしまうのも致し方ないことだと思います。代替表現としては「共演(者)」が望まれることが多いようです。なお私自身は「伴奏」という言葉を拒絶するものではありません。そして幸いなことに私の身の回りの音楽家は皆伴奏者をリスペクトしてくれる人たちばかりです。

 「伴奏者」に対する偏見もまれにあります。それはピアノのソリストとして「上手くない」から伴奏者になるというものです。これはピアノでの伴奏に限らず合奏を主として活動する演奏家全体に対して同様かもしれません。ある種のソリスト至上主義です。ただしこれは一面では理解もできます。確かに伴奏では華麗な超絶技巧が要求されることはそこまで多くないです(特に声楽伴奏では)。ついでに言えば暗譜をしなければいけない機会もあまりありません。そうです、実に簡単でラクな仕事です!実際にこのような理由で(少なくともそれをきっかけとして)伴奏をする人もいるでしょう。それ自体は別に全く悪いことではありません。

 しかし「他者と一緒に演奏する」ということに付随して求められる技術というのがあるのです。社会的な人格として協調性があるかどうかといったことは、全く相関が無いとは言い切れないかもしれませんが、他者と一緒に演奏するのが上手いこととイコールではありません。あくまでそこにはいくつかの専門的な技術があると思います。こんなことを書いている私自身、伴奏者としては若葉マークがついているものですが、その一端を言語化してみたいと思います。

 何より重要なのは「相手の音を聞く技術」です。もっともこれは誰でも挙げられるありきたりなことかもしれません。演奏者がお互いに相手を気にせず自分の好きなようにやるだけでは、音がズレてしまうし音量のバランスもおかしくなるかもしれない……そんなことは伴奏やアンサンブルをしたことがない人でも容易に想像できるでしょう。とはいえこれが意外と難しかったりします。特にピアノは一人で全て演奏できてしまう曲が多い楽器であるため、他者を聞く練習をほとんどせずに学習を進めていく場合も少なくありません。そのような状態で、気持ちでは「聞くぞ!」と思ったからといって、直ちによく聞けるものではないのです。

 さらに言えば、音がズレないかどうかといったこと(これを非常に気にする人がときおりいますが)はある意味で表層的な話に過ぎないと思います。ただ一つ一つの音のタイミングが合っていれば良い演奏になるわけではありません。それどころかいかにも「揃えています!」というような、どこか作り物めいた演奏になってしまう可能性さえあるでしょう。より本質的なことは、相手の呼吸、音色、音の勢い等から、相手がどのように音楽を組み立てたいかを感じ取ることです。つまり相手の音をバラバラの点の羅列ではなく方向性を持った線として捉える、いわば「音の矢印を見る」ことが重要であると考えています。

 リハーサルでは言葉で議論することもありますし、もちろんそれはそれで重要なことです。しかし演奏の最初から最後まで全ての現象を話し合うのは到底不可能ですし、そもそもどんなに入念に打ち合わせをしたところで演奏は一回ごとに変化するものなので、リアルタイムで音を聞きながら直接情報を読み取ることがやはり欠かせないでしょう。そしてその上で、伴奏者はただ何でも相手のやりたいことに従うだけでなく、時には自らも積極的に「矢印」を示して音楽を導いていくべきだと思います。こうしたところに伴奏の面白さがあるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?