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第74話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

蛇の長い舌は獲物を狙いすまして、伸ばして来た。非情なまでの冷酷な目を持った彼。僕の視線を感知して振り向いた。普段の僕だったらやり過ごしたはずなのに、蒸し暑い状態の中、彼に向かって話しかけた。


「あの、そこのポスト、僕のところなんだけど。何か入れようとしませんでしたか?」


僕の問いかけに、彼は焦ることなく涼しい顔をしていた。ポストに伸ばした手を引っ込めると、僕の顔を見て舐め回すように、上から下へ蛇の舌を出した。彼から感じるイメージがそんな風に思わせたのだ。


「君のポストなんだ。へえ、あのさ、もしかして美鈴の彼氏?」


「えっ、なんだって!!」


彼は平然と僕の前で美鈴を呼び捨てにした。次の瞬間、警戒信号が危険信号に変化した。一気に彼に対して警戒心となる。初対面でいきなり僕の彼女を呼び捨てにする彼。僕は無意識に彼を睨むと拳をグッと握りしめた。


「美鈴に何か用ですか?」と聞き返す。


「ああ、用って言うか。忘れ物を届けに来たんだ。モノがモノだからさ、直接届けようかなって思ったんだけど。ちょうど良いや、彼氏ならこれ渡してよ。美鈴のヤツ、慌ててたのかな?こんなの忘れちゃってさ」


次の瞬間、彼は僕に向かって白い塊を胸元へ投げつけた。まさか、投げて渡すとは思わなかったので、危うく落としそうになった。それでも手のひらでキャッチして、僕は受け取った白い塊を確認した。

モノを見た瞬間、首筋の汗が冷や汗に変わり目を見開いた!!彼から渡されたモノは下着だった。レースのパンツが瞳に映っては、ふつふつと怒りが湧く。


「なんだよ、これは!!」と大きな声を出して、蛇の舌を口元からさらけ出した彼へ飛びついた。


胸ぐらを掴んで彼に詰め寄る。僕が僕じゃないみたいだ。怒りに震えて、掴んだ手が今にも蛇の舌を引き千切ってしまいそうだった。それでも彼は、僕の怒りとは反対に冷ややかな目で見つめ返していた。

これではまるで、僕が怖がっているみたいじゃないか!?


「ふざけてんのか!!」

「なんだよ。わざわざ届けに来たのに。美鈴のパンツだぜ。彼氏なら渡してやれよ」と彼は不敵な笑みを浮かべながら言った。


「何なんだお前……」と歯を食いしばりながら聞き返す。この時、生まれて初めて自分の中で殺意にも似た感情が生まれた。


「落ち着けって、何度も言わせるなよ。美鈴がパンツを忘れたんだろ。俺、美鈴と一緒に働いているんだけどさ。こないだ歓迎会をしてもらってさ。そん時アイツ酔っ払ってよ。それで……」

「いい加減にしろよ!!」と僕は再び声を荒げた。


これ以上聞きたくなかった。あの日の出来事は覚えていたし、僕の中では終わっていなかった。美鈴が朝帰りをした日だったから覚えている。最悪なイメージが頭の中で浮かぶ。

もしかして美鈴はこの男とーーーー


僕が怒りで我を失う瞬間。息が止まるほどの衝撃に襲われた。腹部にロケットを撃ち落とすほどの痛みが走る。男の胸ぐらを掴んでいた手が離れて、僕は苦しみと痛みでその場に崩れ落ちた。

蛇の舌がヨダレを垂らすように、男の見下ろす姿を見た。顔を上げた瞬間、男は歪んだ笑みで拳で鼻を打ち砕く!!


あまりの痛みで声が出ない。鼻を押さえた手の隙間から真っ赤な血が滴り落ちる。僕は鼻がもがれた感覚と痛みで恐怖に陥った。腹部を殴られて、鼻まで折られる。この男の暴挙は恐怖と支配で、僕の心を完全にへし折ったのだ。まるで、枝をいとも簡単にへし折るみたいに。


「お前さ、俺に勝てると思ったの?なんでお前みたいな奴が美鈴の彼氏なんだよ。なあ、美鈴に聞いてみろよ。あの夜、何があったのか」男はそう言って、うずくまる僕の背中を足でおもいっきり蹴り倒した。


地面に轢かれた蛙みたいに倒れた。そして、真っ赤な血が手のひらを染めて、僕はただただ恐怖で泣き崩れるのだった。ちっぽけで強さもない僕という弱い人間。嫉妬心と恐怖心は絶望的に心を破壊した。僕は痛みある真実に耐えられなかったんだ。


僕の大人時代は痛みと絶望で終わった。


血まみれの下着を睨みつけ、地面へ唾を吐いた。エントランスのフロアーに赤い斑点がパン屑みたいに跡を付けていた。男の立ち去る姿を目で追いながら、怒りの矛先が美鈴に移行する。何故、あの時に問い詰めなかったのか!!あの時、すべてにハッキリさせておけば、こんな目に合わなかった。

拳を握りしめ立ち上がった。僕はしばらくその場から動けない。頭の中で描くのは、美鈴が男に抱かれる映像だった。酔っ払って、本能のままに淫らな女となった美鈴……


アァアァアァアァアァアァァァ!!!!

心の叫び声が身体中を駆け巡る。息を乱して呼吸が呼吸をしていない感覚になった。エントランスからエレベーターに乗り込むと、僕は僕でなくなり、ただただ裏切った美鈴に対して憎悪の気持ちしかない。そして、部屋の前に立った時、拳の中で握りしめた血に染まった下着を見つめた。


僕は扉を開けて美鈴の待つ部屋へと入った。この日、美鈴は休日でマンションに居た。リビングへ入った瞬間、美鈴の絶句する表情が目に入った。鼻から流れ落ちた血で相当に酷い顔をしていたのだろう。

だけど、そんなことはどうでも良かった。僕は憎悪を混ぜた感情で美鈴を睨み付けた!!


「う、海ちゃん、どうしたの?」と美鈴は青ざめた顔をして僕に近寄った。割れ物に触るように手を伸ばした。


「触るな!!!!!」


僕は大きな声を出して、美鈴の手を叩き落とすと美鈴の肩を突き飛ばす。「キャッ!!」と小さな悲鳴と共に床へ倒れこむ美鈴。

驚いた表情で見上げて、僕の態度に信じられないような顔をした。


「お前、何してたんだよ!!ええ、あの日どこで何をして、何をやってたんだ!!言えよ!!あの男とヤッたのか!?」


「海ちゃん、わかんないよ?意味がわかんない。それよりも怪我の手当てを……」


美鈴が立ち上がろうとした瞬間、僕は拳の中で握り潰していた血まみれの下着を美鈴へ投げつけた。僕の鼻血で汚れた下着は、美鈴の太ももに当たり床へ落ちた。動きが止まった美鈴は青ざめた顔に変化した。それを見て僕の怒りが発狂する。


「覚えがあるんだろう。あの朝、お前は下着も履かずに意気揚々としてたよな。なぁ、気持ち良かったのか?アイツと僕に抱かれて満足だったのかよ!!」

「ち、違うよ。だって私、何も覚えていないの……」指先を震わせながら、美鈴は僕を見上げた。


「さっきマンションの下で男から渡された。お前の忘れもんだってな。どこのホテルで泊まってたんだよ。もう終わりだな」


「嫌よ!!海ちゃん!!私は海ちゃんを裏切るようなことはしていないわ!!だからお願い、終わるとか言わないで……」


瞳から溢れる涙。僕はそんな美鈴に同情をしなかった。頭に感じる痛みと絶望で、これ以上は聞きたくもなかった。考えることもできない。そして一度も振り返ることもなく、泣き叫ぶ美鈴を残して部屋から立ち去った。

最後に聞こえたのは美鈴の泣き叫ぶ声。扉の閉まる音と共に別世界へ行く音だけだった。


『潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く』言葉通り、僕たちの道は宛てのない道で終わりを迎えた。


第75話につづく

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