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鏡と鏡

週末は特に、あたまの中でわたしが饒舌。

仕事のハードな夏がまた終わった。弱っちいことに 通り過ぎればいつも調子をくずすから、9月の入り口はまだ気だるい。季節の変わり目でもある。まんまとやられている。

そんな調子だし、わたしから話すならやさしい話しかしたくなかったけど。妹から 彼女の思う"あきれた大人"の話を聞いてた2日前の夜。ふーん、っていいながら聞いていた。

短い話だった。内容は忘れてしまった。
マナーの話だったか、常識の話だったか...。大人になるのに免許要らないものな、と思いながら。そう口にも出したかもしれないけれど もう、それすら忘れてしまった。よっぽどつまらなかったのかな。失礼だな。

結局さ、ほとんどの場合 年齢とか性別とか国とかそんな括りの話じゃなくて人間の話なんだろうなと思うの。身近にふれるのは。なんとなく大きく聞こえた意見がうねって、所々壁ができてるようにも見えるけど。大きく出た話題をふられると迷っちゃうな。

話す人は当然その人の目から見た事を話すけど、背景には数えきれない色があるんだろう。人間の深い話はいつもむつかしくて、攻撃的になる人のあいだで疲れてしまうから、本当におかしいと思うとき以外は「そういう考えを持つ人がいることもわかる」なんてよく言ってしまう。想像は出来るからうそじゃない。ただ そんなところが ふらふらして見えちゃうこともあるんだろうなぁとか思いながら。でももちろん そのときの受け答えはちゃんとわたしの意見だよ。

感性や種類には、大きな違いがあったりなかったり。遠かったり近かったり。出会いのそこに面白味やドラマを感じては、それもすこし希望だなって思う。面白いこと、沢山たくさんある。

括らないで、個人個人ですべて考えられたらいいのかもしれない。結局さみしいのは変わらなくて、わたしにはそれで丁度いいのかも。わかりやすく引き合いに出されがちな括りって実は、ペン先で打った点みたいなものにも思っていて。

たとえばなにかの輪郭は点と点の線で、
関わりは線と線のかたちや模様で、
そんないろんな模様は
さらに色を持って広がったりする。意味はどんどんふくらんで いつかは歩き出すかも。

この数年、ずっと年下の子たちから学ぶことが多かった。
すごいなぁ、とか 頑張るなぁ、とかよく思った。20年前のわたしとはとても重ならないような。この子たちもどこから来たのかわからない、その事にはじまるいくつかの共通点と、今一緒に目の前で遊ぶ、それがもしちょっとだけでも、忘れてしまっても 大切な 意味のある人生の重なりだなって思ったりする。

わたしが遠いむかしに関わった だれかをふと思い出すことがあるように。顔も名前も思い出せなくても、あった出来事を思い出すように。それに、なんにも思い出せなくてもなにかがあった事、起こったひとつひとつが今の輪郭にくわわっていて、おたがいの人生にさわったというしるしは なにかどこかにうっすらと残る。そんな気がしている。

目の前にいる人と向き合うとき、目の前にいる人を通して たぶん自分のことも見つけたりさがしたりしてる。目の前の人が(見せて)くれるわたしの姿もある。わたしも、誰かから見たらあきれた大人なのかもしれないけれど。人はたぶんいろんなものを写し合う。世界とか社会と、そっと。わたしもその前に いろんなひとりひとりと、ずっと。自分なりに向き合ってみたいものだな。

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