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鈴木秀之のノート。

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(令和3年3月14日〜)
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2023年4月の記事一覧

「伝言ゲーム」のごとく。

「伝言ゲーム」のごとく。

きのうのブログでは、文章を書くことにおいて、
言い切るように書くこと、つまり、
断定をするように書くことが
重要である、というのを見かけたけれども、
ぼくのこのブログの文章では、
まったくそういう書き方になってない。
でも、それが、たとえ
自己弁護な文章なのだったとしても、
ぼくは、ぼくなりに、非力ながらも
じぶんの考えごとを考えるがために、
言い切らず、断定もせず、つまりは、
「かもしれない運転

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「かもしれない運転」のごとく。

「かもしれない運転」のごとく。

文章を書くときには、
言い切るようにして、つまり、
断定をするようにして書くことが大切である。
というのをね、文章のよい書き方として
見かけたのですが、そう言うならば、
ぼくのこのブログの文章なんて、
「と思う」とか、
「わからない」とか、
「かもしれない」とか、
「うまく言えないけど」とかばっかりで、
言い切ったり、断定したり、なんて
ほとんど無いんだから、よい文章とは
ほど遠いんだなあ、と思う

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人間の持つ「力」について。

人間の持つ「力」について。

車って、便利だなあ! と思う。
たとえば、
とっても早く進めるし、
遠くへも楽に行けるし、
物をたくさん運ぶこともできる。
でも、そんな便利な車でも
ひとたび事故が起きてしまえば、
大惨事にだっても成りかねない。
つまり、そんな便利さも
ときに仇と成ってしまうことがある。

現在、陸上100メートル走の世界記録は
ウサイン・ボルトさんの「9秒58」とのことですが、
それを時速に直すと「37.578

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暴力は「許されない」かどうか。

暴力は「許されない」かどうか。

暴力を伴う事件が起きると、テレビのニュース等では
「暴力は、許されない。」と、
キャスターやコメンテーターの方々が言われていて、
それは、ぼくも、そう思うけれども。
でも、なんだか、この
「暴力は、許されない。」ということばって、
どういうことなんだろう? って考えてしまうの。

たとえば、
「暴力は、許されない。」ということは、
受け身の言い方であって、つまりはさ、
その暴力を「許さない」のは、

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「怒れる」と「ら抜きことば」の考察。

「怒れる」と「ら抜きことば」の考察。

「怒る」ということばをね、
受け身の形にしたのが
「怒られる」だ。そして、この
「怒られる」の「ら」を抜くと、
「怒れる」ということばになるけれども、その
「怒れる」ってば、
「いかれる」という読み方もあるけれど、
ぼくが今回考えているのは、
「おこれる」という読み方のほうだ。

「おこれる」って、
ふだん、言いますか?

と申しますのもね、
このごろふと思ったのですが、この
「怒(おこ)れる」の

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ヴォイスによって導かれてゆくこと。

ヴォイスによって導かれてゆくこと。

前回noteでは「声」について、たとえば、
ぼくが好きな歌を聴こうとするときには、
その歌を歌われる歌手の方の
「歌声」が好きなのかもしれないなあ!
みたいなことをしるしたのですが。
そういうような、つまり、
誰かを魅了するかのような「声」とは、
特別であり、かつ、唯一無二であり、そして、
ぼくはさ、「才能」ということばって
なんだかすこし苦手ではあるんだけれども、
でも、そんな「声」というのはそ

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声とことばとうそと声色。

声とことばとうそと声色。

声って、なんだろう?
というのもね、考えてみても、
理屈としてはよくわからないんだけど、
なんだか、感覚的には、
とっても大事なものだなあと感じられる。

たとえば、
音楽を聴くときにね、とくには、
歌を聴こうとするときには、
ぼくは、たぶん、
その歌の「メロディー」や、
その歌での曲の「演奏」や、
その歌の歌詞の「ことば」や、
その歌の「内容」などなどを聴きながら、
いちばんは、その歌を歌われる

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国民の「声」について。

国民の「声」について。

政治って、なんなのだろう?
というのを考えてみるんだけれども、
よくわからないと言えばよくわからないな。
それは、たとえば、
法律を作る、とか、
制度を作る、とか、
予算を考える、とか、というのが
政治なのかなあ? とも思うけど、
はっきりとしたことは、
ぼくにはわからないんだな。

政治において、たとえば
「国民の声を聞くことが大事である。」
ということも聞くですが、そういうような
「国民の声」

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その【街】に【行】かなくてはならない。

その【街】に【行】かなくてはならない。

前回noteでは、村上春樹さんの新作長編
『街とその不確かな壁』について、
その題名の英訳が
“The City and Its Uncertain Walls”
とされていて、ならば、どうして
「壁」は「Walls」という複数形になっていて、また、
「街」は「The Town」ではなくって
「The City」になっているんだろう?
というようなことをしるしたのですが。

そうして考えてみるとね

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「The City」とその「Uncertain」な「Walls」。

「The City」とその「Uncertain」な「Walls」。

昨日のブログでもすこし記したけれども、
先日読み終えました村上春樹さんの新作長編
『街とその不確かな壁』及び、1985年刊行の
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で登場する
「夢読み」とは、何なのか? とは、
ぼくはぜんぜんわかってない。もしくは、
「夢読み」の読む「古い夢」というのも
よくわからないし、そして、
「夢読み」が「古い夢」を読む「図書館」も、
ふつうの図書館の佇まいではな

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しがない読者なりに。

しがない読者なりに。

昨日のブログでは、先週木曜日に発売なされました
村上春樹さんの長編小説『街とその不確かな壁』を、
読み終えたことを申しまして。そして、
先日のブログでも書いたですが、ぼくは
読書感想文を記すのが苦手ではあるんですが、
今回もまた、この読書の感想をね、
記す、というのはできがたいんだな。

そもそも、ぼくは
文芸批評家でも評論家でも無いので、
そんな、批評や評論もできないし、
こういう個人的なブログ

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なかなか得がたい読書体験。

なかなか得がたい読書体験。

先週の木曜日に発売なされました、
村上春樹さんの長編小説
『街とその不確かな壁』を読み終えました。

この読書体験はね、なんと申しますか、
これまでのじぶんの読書の中でも、
至極、特別のようなものだった気がしている。
でも、だからと言って、この小説は、
素晴らしいから、読んで〜! って、誰しもに
おすすめしたいわけでもない、とも思っている。

読書中、ぼくが感じていたこの
「特別さ」のことを説明す

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果てしない日本語の冒険。

果てしない日本語の冒険。

昔のじぶん自身に対して、
反省していること、というか、
あれは、だめだった、ってゆうのは、
いろいろあるですが、そのなかでもね、
そのいちばんとして考えられるのは、
大学を卒業したぐらいの時分において、
じぶんは大学も卒業したんだし、ならば、
「日本語」という言語は、ある程度、
マスターしたんじゃあないの?
と思ってしまったことだなあ。

そりゃあ、いちお、
六・三・三・四と言う年数を、学校で

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勉強と平和。

勉強と平和。

どうして、学校の勉強をするの?
ってゆうのはね、おそらく、その人によって
理由や動機がちがってくるだろうから、
一概にも言えないと思うし、つまりはさ、
はっきり、これだ! というのも
ぼくとしてはじつはよくわからないですが。

学校の勉強について考えるときにぼくが思うことは、
学校の勉強というのも、
当たり前にあるものでは無い、と申しますか。
たとえば、災害や戦争等があれば
学校の勉強もできがたく

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