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何かのメタファーが宿ってしまうこと。

前回noteでは、メタファー(隠喩・暗喩)について
もういっそのこと、あらゆる
「〜のような」のような語句が使われてない文章はすべて、
メタファーの文章なのだ、って思うことしか
ぼくにはできない、というようなことを記しました。

つまりはさ、たとえば、
「〜のような」的なことばが使われない
比喩の文章がメタファーで、そしてまた、
「〜のような」的なことばが使われない
直接的な言い方の文章もあって、そのどちらの文章も
比喩の合図となる語句が使われていない。
なので、ともすれば、
どっちの文章が比喩で、
どっちの文章が比喩じゃあないか、って
一見、わかりにくい場合もあるんだろう。
言い換えれば、どんな文章においてもそれは
比喩の文章である可能性が考えられる。

このように考えるときにむつかしくなってくるのはね、
たとえば、文章を書く側が
メタファーとして書いた文章が、
メタファーとして受け取られなかった場合、及び、
メタファーとしてではなく直接的な意味で書いた文章が
メタファーとして受け取られてしまった場合、
というのがあると思うけれども。それは、いわば、
前者は誤読、後者は曲解、とも呼ばれるやもしれないけど。
でも、文章の意図や意味を
完璧に見定めるのはじつは困難で、そのどちらも
いつでも起きうるんだろう。

そして、さらにもっとむつかしいのは、
文章を書く本人が意図していないメタファーが、
その文章の中に入り込んでしまう、つまり、言い換えれば
何かのメタファーが宿ってしまう、
みたいなときで。たとえば、
そういう場合のことを単純に言うとするならば、
相手を傷つけようとする意図を持たないまま書かれた文章を、
相手が読んで傷ついてしまった、という場合には
もしかしたら、そういうような
書いた本人の意図しない意味が、
その文章の中に入り込んでしまった、
と言えるやもしらない。
もしくは、その逆にね、
書いた本人が何の気なしに書かれた文章が、
本人の知らぬあいだに、じつは
けっこう深い内容が書かれていた、
ってゆうことも絶対に無いとは言い切れない。

このどちらのような場合も
「メタファー」が関係している、と思うのよね。

村上春樹さんの長編小説作品『騎士団長殺し』では、
非常に危険な存在として「二重メタファー」という人物(?)が
登場するけれども。ぼくとしては、
この存在がどういう存在であるのか? ということは、
ぜんぜんよくわかっていないですが、でも、
上記のことも合わせて考えてみるとすれば、
「二重」と呼ばれるぐらいなのだから、たとえば、なんだろう、
書いた本人がとあるメタファーとして書かれた文章が、
書いた本人の知らぬあいだに、じつは
そのメタファーとは別のメタファーが宿ってしまっている、
というような状況でしょうか。
そういうことが本当に起こりうるかどうかはわからないけれど、
もしも、そういうような状況になった場合には、
書いた人も、読んだ人も、
二重のメタファーの中に迷い込んでしまうやもしらない。

文章を読む、もしくは、
文章を書くことって、
とてもむつかしいことだとは思うけれども。
そのむつかしさって、
うまく書けるか書けないかに限らず、つまり、
文才があるのかないのか、だけでなくって、
ある文章によって人間の意図しない状況さえ
起きうることがある、ということかもしれないな。

だからこそ、
文章とは、そして、ことばとは
非常にこわいものでもあるし、でも、逆を言えば
あらゆる可能性に開かれているものである、
とも言えるのでしょう。

そんなことを考えながら、ぼく自身としては
このブログの文章を書いてゆけたい。

令和5年9月28日

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