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世界の成り立ちと慰めになるから。

昨日のブログでは、学校の勉強には
価値があるかないか、というようなことについて
考えていたことをしるしました。
ぼくが考えるのはね、学校の勉強、とくに
小中学校の義務教育における勉強には、
まったく価値が無いとは言い切れない、つまり、
価値がある、と思う。

国語も、算数(数学)も、理科も、社会も、そして
英語(外国語)も、はたまた
副教科とされる各教科においても、これまでの
人類が築いてこられた知識より成り立っていて。
それらを見聞きすることによって、
この世界の成り立ちを知ることができる。
もしも学校教育が存在していなかったら、
それらを学ぶ機会、及び
それらと接する機会も無いのだから、
ともすれば、この世界について、
親や周りの人たちより教えられることはあったとしても、
それ以上は知ることができないだろう。

とは言えども、たとえば
小中学校で習う勉強において、
ぼくが感じているのは、そのなかには
人間が生きることにおける
「救い」になるようなことは、
あんまり、と言うよりも
ほとんど無いのではないか。

つまり、人生における大ピンチの局面で
あのときのあの教科で習ったこの知識のおかげで、
生きらえることができた、というのは、
そんなには無いのではないか?
とも思うのですが。どちらかと申しますと、
そういうような場面で「救われる」知識とは、
学校の勉強とはまたちがう、
本で読んだ物事、もしくは
誰かより聞かされた事柄によって、
なされるほうが多いように存じます。
つまりは、学校の勉強には
「救い」の知識が無い、
というふうにぼくは感じるかなあ。
それはでも、学校の勉強について
ぼく自身が詳しく知らないだけやもしれませんが。

学校の勉強について思うとき、
よく言われるようなことで申しあげますと、
「この勉強が将来、なんの役にたつの?」
という疑問なのだと存じますが。
それはつまり、今学んでいることが
人間の「救い」の知識では無い、と、
教育を受ける側もうすうす勘づいてしまっている、
ということを意味しているやもしらない。
そのことより考えてみるともすれば、
どれだけ学校の勉強をしたとしても、
その人が、その勉強した物事によって
「救われる」みたいなことは、
あんまり無いのかもしれない。

ならば、やっぱり、
学校の勉強とは、
何のためにあるのだろう?!

そういうようなことも考えながら、
先日、ひさしぶりにね、
サカナクションの2019年リリースのアルバム
『834.194』を聴きながら、このアルバムで収録されております
『セプテンバー』という曲の歌詞の、、

わずかな知識でも
慰めになるから
捜し求め歩いては
また口つぐむだろう

セプテンバー/サカナクション

【わずかな知識でも慰めになるから】
という歌詞のところで、はっと感じて。
つまりはさ、学校の勉強における
知識だっても、人間の
「救い」にならなかったとしても、
「慰め」にはなる。
「慰め」になるのならば、もう、
それだけで良いんだとも思えてきて。

この『セプテンバー』という曲は、
サカナクションの山口一郎さんが
10代のころ作られたとのことでして、10代で
【わずかな知識でも慰めになるから】
と思うことができる、って
一郎さん、すごいなあ、と思うのですが。
今また、あらためて、この二月に
『セプテンバー』を聴きながら、
そんなことを考えておりました。

ここで生きる意味 捜し求め歩くだろう
それもまあいいさ♪

令和6年2月23日

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