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「記す」とはどういうことなのか?

昨日のブログでは、先日放映されました
「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を観ながら、
ぼくが想ったこと、とくに昨日はね、坂本龍一さんの
最晩年の肉声記録としてお話しなされていた
「音楽」と「音」のことを申しあげました。
そのことを想いながら、あらためて
坂本さんのアルバム『12』も聴きました。
この『12』という作品とは、たぶん、
これからもいろいろなとき、つまり
ちょっと身体がつかれているような
音楽を聴けないようなときにでも、折に触れて
聴いてゆくようになるやもしらないな。

番組を観ながらさらに想っていたのはね、
坂本さんは、最晩年においても
作品を制作されておられたこと、
そして、亡くなられる数日前の日でも
映像として、肉声として、文字として、
ご自身の記録を残そうとされておられた、というのは
もう、なんと申しますか、このことが
どのくらい大変かつ困難なことであるか、
ぼくには想像もできないんですが。
番組を観ながら、ぼくとしては、坂本さんは
人間が「生きる」とはどういうことなのか?
ということを、ぼくらへと示されていた、
とも感じておりました。

昨年六月刊行なされました坂本龍一さんの著書
『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』も拝読いたしましたが、
書籍の巻末において鈴木正文さんによる
「著者に代わってのあとがき」では、坂本さんが
最期の日々をつづられていたメモダイアリーが、
いくつか掲載されていて、また、このたびの
「Last Days」の番組内でも、書籍では
掲載されてなかったことばを見ることもできました。
そして、その、亡くなられる二日前
「2023年3月26日」のダイアリーには、、

20230326
0545 36.7/ BP 115-80 /SPO 97

‥‥とのように記されていて、この記述について
書籍で読んだときには、おそらく、ご自身の
体調に関する数字なのだろうとは存じましたが、
詳しいことはわからず。
でも、今回の番組の中では
字幕で説明もなされていて、つまり、、

0545時刻 36.7体温/ BP 115-80血圧 /SPO 97酸素飽和度

‥‥とのことなのでして。
このことを観ながら、ぼくは
あることを思い出しておりました。

そのあることというのは、2012年亡くなられました
吉本隆明さんが生前、手帳にご自身の
「血糖値」を日々記録されておられた。
指に針をさして出した血液から値を測定する、
というふうでしたか、そのために、手帳のページも
ご自身の血の痕で赤くなっていて、それでも
吉本さんは血糖値を記録し続けられていた。
詩人であり、評論家であり、そして
「戦後思想界の巨人」とも呼ばれた吉本さんにとって、
物事を「記す」ことは、とてもとてもとても
大切なことだった、というのを
ここからも読むことができると存じあげます。
(吉本隆明さんのこの手帳は、その後、
吉本さんの次女・吉本ばななさんにわたった、と、
ばななさんの著書で読んだ記憶がございます。)

ぼくは、たとえば、このような
「記す」とはどういうことなのか? 
というのもまだよくわかってない部分もあるですが。
でも、なんだか、うまくは言えないけれども、
坂本龍一さん、そして、吉本隆明さんが
最晩年においても日々、物事を
記し続けておられたことより鑑みるともすれば、
「記す」とは、人間が
「生きる」ことと密接に結びついているのではないか、
ってゆうふうにも考えることができるかなあ。
そして、また、この
「記す」とは、誰かへと
「伝える」ためだけにあるのではない。

そんなことをね、先日放映の
「Last Days」の番組を観ながら感じておりました。

芸術は永く、及び、
人間の手による記もまた永く。。。

令和6年4月22日


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