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積み木を積む日々。(黄昏と積み木_mix)

人生とは、日々、
積み木を積んでゆくようだ。

つまりはさ、毎日、
頭の中にある場の台の上に
ひとつずつ積み木を積む。

その積み木は、一日一個、
神様から強制的に支給されて、
その一日が終わるまでのあいだに
その台の上へと置いてゆかねばならない。

一日一個、つまり、三日で三個、
一週間で七個、一か月で三十個、
三か月では九十個、半年では百八十個、
そのぐらいの個数だったらば、
けっこう簡単そうに思えるけれど、
一年ならば三百六十五個、そして、
十年ならば三千六百五十個プラス閏年分の個数を
積み上げてゆくのは簡単じゃあない。

そんな積み木をね、日々、
どういうふうに積んでゆくのかは
個人個人の自由だ。

一個一個、整然と並べてゆくのも良し、
どこまで高く積めるか挑戦しても良し、
ピラミッドの形を組む、とか、
東京タワーの形を組む、とか、
金閣寺の形を組む、とか、
自由の女神の形を組む、とか、
宇宙ロケットの形を組む、とか、
いろいろな形で積むのも良し。
一個の積み木だけでは、
何も作れなかったとしても、日々、
何個かの積み木を組み合わせてゆければ、
あらゆるものも作ることができるだろう。

一年、三百六十五個だったら
町を作ることもできるやもしらないし、
十年、三千六百五十個だったら
都市を作ることもできるやもしらない。

産まれた直後、つまり、
赤ちゃん及び幼児のころには、
神様から支給されるその積み木を、
親が積んでゆくんだとしても、
だんだん、一人で積むことになる。

子どものころは、無意識のままに
その積み木を積んでいたとしても、
思春期に入れば自ずと自我も表れ始めてきて、
自己表現的に、つまり、
自意識的に積み木を積んでゆく。

大人になったときには、
子どものころや思春期のころに積んだ積み木を、
疎ましく思えてしまったり、
若気の至りのように感じられたとしても、
それもまた、その積み木を
積んだ人の性格であり、つまり、
その人の性質であると言える気がする。

積み木を積む日々では、
あるとき、その積み木が
崩れてしまうこともあるだろうし、
誰かに崩されてしまうこともあるだろうし、
自分自身の手で崩してしまうこともあるだろう。
そんなときでも、その
崩れた積み木はそのままで、かつ、
神様による日々の積み木の支給も止まらない。
ならば、また、ひとつずつ、
積み木を積んでゆくほかない。

そんな積み木を積んでゆく日々も、
数十年後、もしくは、百数年後、
終わりを迎えるけれど、そのときには
どんな積み木の光景が、
その場に浮かび上がっているんだろうか。
その景色は、
黄昏の光に映されながら、
さぞかし、きれいなんだろうなあ〜。

そんなことも想像しながら、日々、
この積み木を積み上げられたら。。。

いつか、誰かと一緒になって
積み木を二人で積む日々が来るとすれば、
どうか、ぼくらの小さな願いを
一緒に積み上げよう。

ひとつずつ、ていねいに。

令和5年10月8日

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