当方、ゴミ屋敷育ち。

私の子ども時代を知っている人にとっては今さらの話なのだけど、私の実家はいわゆるゴミ屋敷だ。

生ゴミが散乱するとかのタイプではなかったものの、とにかく「本来捨てて構わないはずのもの」がいつまでも遺産のように残り続けて、人が住んでいるにも関わらず廃墟のような中身をした住まいだった。
(家捜しされたあとの強盗現場っぽい家と言えば伝わりよいかもしれない)

今にして思うと、一番の散らかし大将は私だった気がする。
物心つくかつかないかの頃にクリスマスプレゼントでもらった、どこにでもあるブーツ型のお菓子入れとか、おもちゃの携帯電話とか、あと、その家へ越してくる際に使った段ボールの残骸とか。

まあなんというか、形状がおもしろくて手元に残しておきたかったと言ってしまえば、のちにデザイナーになる者の片鱗みたいで聞えはよいのだけど。
それにしたって、段ボールの空箱は何年も取っておく価値とかないよね。せめて畳めよ、という感じだ。

そういう、愛着があったりなかったりする「もういらんやろ」みたいなものがゴロゴロ転がっていて、私の実家には足の踏み場がないのが常だった。

そんな私が独り暮らしをする大人になって数年。
ときには嫌になるほど部屋が散らかる瞬間もあるなかで、思ったよりはまともな部屋の状態を維持できている自分に気づくと、不思議な感慨を持ったりもするわけです。

あれ? もしかして私、それなりに片付けるという概念を持った人間だったの? と。

・ ・ ・

私の片付けられない史は、一番古いところで小学1年生くらいの時分にまでさかのぼる。

それは「片付けることに労力を使いたくない」といったズボラ精神に限りなく近いところがあり(実際にはちょっと違うが)、散らかりを指摘されては「片付ける」と言って、階段の端を棚替わりに色々なものを陳列して済ませていたことを覚えている。

子どもなりに会得した効率主義だったのかもしれない。
よく使うものだからおもてに出ているだけであって、そこにあること自体は罪ではないのだ的な。

いまだにその理屈は私の中に生き残っていて「おもてに出ているものだけ使う(=しまうようなものは手元に置かない)」とかいう強引なポリシーに吸収されているのだけど、冒頭でも述べたとおり、その昔、それにしたってあんまりな時代もあった。

ちょっと部屋の片隅にガラクタの山があるな、程度の散らかり具合だった私の活動スペースは、階段を物置棚に定めてから3年後には立派な汚部屋へ進化した。

何がどうしてそうなったというのは、ちょうどその頃、父と母の不仲が私の目につくところで度々証明されるようになった時期でもあり、その二人についていくしかない私は無意識ながらもいっぱいいっぱいだったのだろうと思われる。

私は双子(男女)だったので、両親が揉める要因は大抵が金だった。
もちろん、子ども一人を育てるのには手間も金も時間もかかるのは分かっているので、それを偶然とはいえ二人同時にこなさざるをえなくなった難しさを責めるつもりは、あまりない。

ただ、言葉の理解が曖昧だった保育園時代に比べると、格段に状況が分かるようになってきた小学生時代。
私は、自分の存在が親から真っ向より歓迎されていないような雰囲気を、少しだけ敏感に感じ取るようになっていたのだ。

記憶の端々には、関わる大人たちの気を引こうと必死になっていた自分が強く思い出されることが多い。

たとえば、下校前のホームルームで「10月」と言われただけで「私の誕生日の話だ!お祝いしてくれるの?」と執拗に話を持っていこうとする小2女児は、当時のクラス担任にとってとんでもない自意識過剰ガールだったに違いない。
(なんだそんなもの、と片付けてしまえればよいのだけれど、あいにくこれは、いろんな意味で「片付かない話」なのである……)

上述したエピソードは思い出すたび自分でもドン引くし、なんなら担任の先生にたしなめられたその瞬間も、自分のしたことのみじめさに気づいて瞬く間に血の気が引いたことを覚えているが、つまり私は、それくらい潜在的に「自分に関心を持たれないこと」に怯えていた。

そんな状態に至るまでの決定的な要因は、些細なわがままが原因で発生した親子喧嘩で、父親から突然「お前なんか死んじまえ」と吐き捨てられたことにある。

気づかないように騙し騙し過ごしてきた日々がその一言で真っ暗になって、「ああ、やっぱり私は邪魔者だったんだ」と感じたものである。
詳細は話すと長くなるので別の文章にまとめることにするけども、まあそこからの「片付けられない」の加速は控えめに言ってやばかった。

父親から拒絶されて以降(父は酒のせいにしていたが、酔いに任せて出る言葉は往々にして本心)、どれだけ平気な顔をしていても家に帰るとどんな自分でいればいいのかよく分からなかったので、当時の私は「家庭生活」という面で多くの思考が止まっていた。

学校では問題を起こすこともなく比較的優等生だった一方、自宅では相変わらずの散らかし大将だったので、身内からはてんでずぼらの怠け者に見られていたと思う。

そこに追い討ちをかけたのは、不仲家庭の伝家の宝刀「実家に帰らさせて頂きます」による、母の突然の出奔劇だったんじゃなかろうか。

たしか、小学4年生の1学期頃のことだったはずだ。
訳も分からないまま隣町に暮らす祖母宅へ母子で転がり込みはじめ、理由は明かされないがいつまでも本来の自分たちの家に帰る気配がなく、ただし父親の迎えの車に乗せられて元の町の小学校へ通い続けるという生活で、ここまでくると幼い頭にはもうパニックの連続である。

さらに出奔先でも衝撃的な一悶着がいくつかあったので(これもいつか別で書く……)、あれよあれよと叩き込まれた理不尽に、私の思考力はほぼ限界に達していた。

その結果迎えたのは片付けられない史のクライマックスで、なんと、家庭再建のために二世帯で暮らすことになった新天地でも私の汚部屋は進化し続け、やがて新居を汚家として飲み込むに至った。

自立を意識しはじめた中学時代の後半あたりからは、少しまともに「このままじゃいかん」という気持ちがよみがえってきたものだけど、小4~中3までの5年間は本当に酷かった。

これは余談だが、転居に付随し小学校を転校することになった私は、当時しばらくの間、転校前の友人がくれた大きな夏みかん(よく遊んだ山にいっぱいなっていた)を眺めていた記憶がある。
程々にしておけばいいものを、日に日に萎れて腐っていくさまを一人で呆然と見つめ、頭の奥ではそんな自分を見なかったことにしようとしたりして、私は若干10歳にして仏僧のような九相観(九つの段階に分けて、死体が朽ちていく経過を見て観想すること。それらを描いた仏教絵画を九相図といいます)に行きつくという、とんでもないバグを抱えていた。

でも当時は、子どもの情報ネットワークといえばせいぜい手紙の時代である。
先達者の経験を検索するすべもなければ、到底理解されるはずもない家庭状況を友人に相談できるわけでもなく、私の部屋は散らかり続け、中学校へ上がる頃にはいよいよいろんなタイプの虫とのエンカウントが発生するようにもなっていたーー。

そこからよく、「散らかっているけどちょっと片付ければ人を呼べる」程度にまで美意識を持ち直せたなあと、我ながら思う。
家具に好みを照らし合わせてあれこれ理想を語る余裕があるとか、パニックだらけの頃に比べたら大躍進だわ。

むちゃくちゃだった子ども時代、いつもきれいに整理整頓された部屋で暮らす友人各位と比較しては、自分の生活オワってんな、と思っていた劣等感は杞憂だったのかもしれない。

私の胸には今、28歳にして「部屋の乱れは心の乱れ」なんて言葉がよく沁みる。

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