後藤のじいじ

私には祖父が3人いる。
そのうち血の繋がっている家系図上の祖父は当然2人なのだけれど、彼らがこの世を去るまでの間で、私が一番親しく「じいじ」と呼んでいたのは、母方の祖母と暮らす第3の祖父「後藤のじいじ」だった。

後藤のじいじは、私が小学校2年生か3年生の頃に75歳で亡くなったので、もうこの世にはいない。
だけどなぜそんなに懐いていたのかというと、幼少の頃から病弱な双子の片割れが体調を崩したり入院したりするたびに、手のあかない両親に代わって、私はよく祖父母の家へ預けられていたからだった。

端から見ればどこにでもいる祖父と孫だったので、後藤のじいじが3人目の祖父であることは、これといって特異に思われていなかった気がする。
かくいう私も当時、祖父を呼ぶ際に枕詞となる「後藤の」という響きに深い意味があるとは思いもしなかった。

それがどうやら他の家庭には起こり得ない状況であったと薄々感じはじめたのは、「名字」という概念に出会ってからだった。

父方の姓とも母方の姓とも異なる祖父の姓に、私は後藤のじいじの生前、気を使うという発想にいたる前の好奇心で、本人へ直接訊ねてしまったことがある。

「どうして、じいじだけ後藤なの?」

その時どう答えてもらったのかはよく覚えていないが、とにかく、なんだか気まずそうに言葉を濁した後藤のじいじを変だなと思いながらも、私は後藤のじいじが大好きだったので「後藤のじいじが困るなら、もう訊かんでいいや」とその問答をなかったことにした。

 ・ ・ ・

その謎が私の頭でしっかり理解できたのは、後藤のじいじが亡くなったあと、中学生に上がったくらいの頃だった。

幸か不幸か、家庭環境の悪化により母が家を出ていくと言い出した家族会議の折りに、ようやく明確な言葉をもって後藤のじいじの合流経緯が明かされたのである。

結論からいうと後藤のじいじは、若くして未亡人となった祖母のパートナーであった。
あくまで「パートナー」と表現するのは、祖母の夫は本当の祖父だけであり、後藤のじいじとは生計をともにする以外、夫婦ならではの関係が起こり得なかったと聞くからだ。
(ちなみに母方の本当の祖父のことは、祖母の仏壇部屋に遺影があったのと、母からの昔話にちょいちょい登場するので、その存在や生前の顔などは知っていた)

つまり後藤のじいじは、今でいうところの事実婚みたいなもので、あとから母方の一家に加わったニューキャラクターなのであった。
祖母も母も後藤のじいじも、一緒に暮らしはじめた頃はその時代らしくかなり周りにやんや言われたらしいけれど、それから私の母を含めて三人の子ども(母は三姉妹の長女だった)を大人になるまで養育したのだから、後藤のじいじは母方の家族にとって立派な父親代わりだった。

ただ、私はその話を聞いた瞬間、後藤のじいじのことを誇らしく思うと同時に、とても寂しい気持ちになった。

大好きな後藤のじいじにとって、自分が本当の孫ではなかった現実を突きつけられた切なさと、もう一つ。
そのくだりを用いて、まるで対極へ走るかのように残りの家族(祖母、叔母、父、私、片割れ)を置き去りにしていこうとする母に、はじめての「解釈違い」を起こしたのである。

母は「あなたたちのお父さんがもう一度親としてやり直したいと言ったので、やらせてあげることにした」とよく分からない目線で私たちに説明したのだが、こっちからすれば「遊びじゃねえんだぞ」の一言に尽きる。

どんなに母が父とうまくいっていなかろうと、家族というのはDNAがどうこう以前に信頼関係で成り立っている生活コミュニティであり、見栄えや体裁を取り繕ったところで当事者たちに信頼関係がないのであれば、何度やり直そうが成り立たないものだ。

私は後藤のじいじのいきさつで「あとから既存コミュニティに加わることになったとしても、れっきとした信頼関係を築くことができれば家族たりえる」と教訓を得ていたが、同じ「後藤のじいじ」を引き合いに母がぶつけてきたのは、「今のあなたたちと同じくらいの年齢で自分は本当の父親を亡くした、だからあなたたちも母は死んだと思って過ごしなさい(ただし私は生きる)」という盛大な手切りだったので、「そんな無責任な話があるか!」と内心で憤慨した。
一緒にやり直す気がない人からそのようにのたまわれて、その先の家庭がうまくいく気なんて1mmもしなかったのだ。

気づいた時には言葉にする力もないまま泣きわめいたが、母は私の慟哭を「子が親を求めているから」だと思っていたらしく、その後はあたかも正義のつるぎを振るった勇者であるかのように、清々しい面持ちで父親にマウントを取って地獄の家庭を単身抜け出した。

母にもそれなりの感情や理由があっただろうとは思うし、しんどかった毎日はいつも近くで見てきたので、そうしたくなる気持ちは今でも分かる。
でも、だからと言って自分の存在そのものを罰ゲームのペナルティであるかのように扱われた側が、何も思わなかったのかといわれると、そんなわけがないのだ。
(片割れがどうかは知らんが、少なくとも私は、言葉にするための頭がまわらなくても思うところは山ほどあった)

父から「死んでしまえ」と憎しみをぶつけられて以降、家庭のなかでの私の心の支えは母だけだった。
その母が「いち抜けた」と離脱する衝撃といったら、思春期女子の仲違いにありがちな「親友からの裏切り」のそれに驚くほど近い。
本来なら揺り籠から墓場まで続く家庭のなかでそれが起きて、ついに私は、父も母も、私の親になろうとする気がほとんどないことに気がついた。
(当時、ことあるごとに「あなたと友達のような親子になりたい」と口にしていた母の言葉を、私は純粋に「あなたと一層仲良くなりたい」という思いとして解釈していたが、本心は「自分が面倒を見なくて済むレベルで、自分の状況を知って共感してくれる仲間がほしい」という気持ちだったのだろう)

じゃあ、私のことを育ててくれた「本当の意味での親」は、いったい誰なのだ?

そう振り返る脳裏には、いつも一番に後藤のじいじが現れて、それと並んで祖母が思い浮かぶ。
泥だらけになって採った畑のサヤエンドウを晩ご飯のおかずにしたり、虫刺されにはマムシ酒だと教えてくれたり、裏山の手入れで切り落とした木の枝で一緒に木工をしたり。
生みの親は父母かもしれないが、私にとっての育ての親は、誰がなんと言おうと祖母と後藤のじいじだ。

生みの親を前にして、親と思えない気持ちはひどく後ろめたく、息苦しい。

その後も多くのことがあって、いよいよ血の繋がった家族を断捨離することに決めてしまった私は、血も遺伝子も繋がっていない相手のために愛情を絶やさなかった後藤のじいじに、心のどこかで顔向けすることができない気持ちがあるけれど。

それでも、後藤のじいじに育てられた子どもの一人として、せめて他のことでは胸を張れる人間でありたいと、なけなしのプライドで思っていたりする。

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