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【ショートストーリー】あの人、ダンナ、いっちゃん

草太は、自分の妻のことを「あの人」と呼ぶ。
「あの人はカレーが好きだから」
「昨日はあの人、娘に横腹蹴られて悶絶してた」
初めて聞いた時、まるで赤の他人みたいと思ったけど、話を聞いている限り夫婦仲は良好みたいだ。
「これ、あの人が好きなやつ。買って帰ろうかな」
日中一緒に過ごしていると、何度も「あの人」が雑談に出てくる。
「草太は本当に奥さんのことが好きなんだね」
私がそう言ったら、草太は一瞬困った顔をした後、「うん、そうだね」と早口に言った。

あの人はムーミンが好きなのだそうだ。ムーミンの絵柄のお菓子を見つければ、草太はお土産に買う。
「少女みたいだね」
私が言うと、「あの人、歳を取ることを知らないから」と真顔で言われた。
ムーミンのお菓子を手に取る時、草太はとても優しい顔をしている。

それに対して、草太は仕事中、たいていしかめっ面をしていた。
大学を卒業したての頃、私は上手く就職できなくて途方に暮れていた。従兄弟である草太が「世間体を気にしないならどう?」と、探偵事務所を紹介してくれたのだった。
草太を含めてたった五人の小さな事務所だ。崖っぷちの私は、普段から世間体を気にしているだろうかなんて考える余地もなく、一緒に働きたいとその場で申し出た。コンビニのバイトも向いていない、ちょうどそう痛感していた時期だった。

私は、夫のことを「いっちゃん」と呼ぶ。名前が樹(いつき)だからだ。ストーカーに悩まされていると探偵事務所に相談してきた彼と、四年前に知り合った。
友人たちはみんな、自分の夫のことを「ダンナ」と呼ぶけど、私はついそのまま人前でもいっちゃんと呼んでしまう。それを聞いた友人は「仲いいね」と口々に言う。そして、私は決まって「ううん、そんなことないよ」と返す。
謙遜して、ではない。私たちの夫婦仲はあまりよくない。今さら、呼び方を変えるのをためらってしまうほどに。

私も草太を見習って、あの人と呼ぼうとしたことがある。けれど、結局はできなかった。強く意識しないと、なぜかどうしてもいっちゃんと呼んでしまう。
夫は私のことをもう名前で呼ぶことすらないのに。

今日も迷子になったペットを探したり、騙されて取られたお金を取り返そうと試みているうちに、日が暮れようとしていた。
「もう上がっていいよ」
草太がいつものように言ってくれて、「それじゃあ、お先に失礼します」と私は誰よりも早く退社する。これ以上、残業したって戦力になるスキルもないし、残業代もつかない。
五年働いていたって私が一番下っ端で、まだまだ新参者のような気分が抜けずにいた。

わずかに暗くなっていく空を見上げながら、ひとり思う。
どうせ帰ってもいっちゃんは遅いし、先に眠っている私をわざわざ起こすこともない。
そして、明日はいっちゃんが起きる前に、私が先に家を出るだろう。それが一週間、いや、一ヶ月、一年……つまり、この先ずっと続きそうだ。休日を迎えてようやく顔を合わせても、ろくに会話もない。
こんな生活になんの意味があるのだろう。ぼんやりと考えた時、小さな雑貨屋の窓から、ムーミンママが見えた。

「ママ、か」
知らぬ間に、ぽつりと呟いていた。今のままでは、母親になるなんて想像もつかないな、なんて思った。
別に子どもは好きじゃない。特別欲しいと思ったこともない。
でも、今の生活を続けて、このままおばあちゃんになっていくのかな。当然、孫のいないおばあちゃんに。
そう思ったら、急に胸が苦しくなった。

いつしかの草太の声がよみがえる。
「ムーミンママも好きだけど、あの人はミイがお気に入りなんだって。自分の感情を誰よりも大事にしてるかららしい」

自分の感情なんてもの、もう大人になる前からずっと気づかない振りをして生きてきた。だって、現実が気持ちと裏腹ならめんどくさいもの。最初から、そんなものはなければいいと思ってきた。

だけど、結局はそれもしんどいことに今さら気づく。そのしんどさも受け入れるしかないのか、なんていつもなら諦めるのに、今日に限ってなぜかこのままじゃダメだと強く感じる自分がいた。

とりあえず、今日は少し夜更かししていっちゃんの帰りを待とう。そんな珍しいことを思えた自分に驚いていた。
「おかえり、いっちゃん。お疲れ様」と言って、ちゃんと目を見よう。いっちゃんが返してくれるのかは少し怖いけど、決してひるまずに夫婦をしてみよう。
そう決めた時にはすっかり辺りは暗くなっていた。でも、私はこれからやっと今日一日と、自分と向き合おうとしていた。

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