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遅めの2023年 初投稿


遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。
と言っても、すでに1月も中旬ですが(笑)

1993年生まれの私にとっては、とうとう2023年が到来してしまった、と。
奇しくも、平成5年生まれが、令和5年を体感。

小さい頃の写真を見たりすると、どんどん古そうな雰囲気が出てくるのが切なくもあり、同時にここまで長らく生きてきたんだなぁ、といいう感慨深さを感じたりもします。

30年の節目

ということで、今年は生誕30周年となるわけでして、ちょっと自分の生い立ちを振り返りつつ、今の自分目線で感想を述べたい気持ちです笑(少々お付き合いください)

1993-2002

私が物心がついたのは、1999年前後なので、親から聞いた話も混じる範囲です。
予定日よりもぴったり2ヶ月早く産まれた私。(その影響で学年繰り上がり)
1,400gと、2㎏の小さい米袋にも満たない体重でした。
人生で初めて乗った車が救急車。(レアで自慢)
大きい病院へ生誕早々に運ばれ、新生児集中治療室に入ります。
母と一度も触れることなく、2ヶ月も入院していたので、退院の際は看護師さんのほうを目で後追いしていた、と母が寂しそうに言っていました。

保育園は、1才になってから、やっと受け入れてもらえました。
それも全ての発達が遅れているので、一学年下のクラスに混ざって。
当時の写真で、一学年下の子がもう歩いているのに、まだハイハイの自分が写っています。
今になって思えば当たり前ですが、人との優劣なんて理解できてませんから、何をしても周りより上手くいかない、周りよりできない自分が、苦しい幼少期でした。

特に、小学校に入学してからは、画一的な学年教育がなされるわけで、給食の量も身体に対して多すぎる、体育はしんどい、脳の発達も微妙に遅いから勉強の理解も差がある。
小さい頃から、病院慣れしていて、大人に囲まれて育ったこともあり、同年代の子の理不尽さが理解できず、いつも泣いていました。

正直、最初の10年が一番しんどかったんじゃんかろうか。
よく頑張りました(笑)

2003-2012

第二フェーズのこの10年は、まさに急成長と、急降下。
児童発達の面からも、本当の自我が芽生える頃だそうですが、やっと脳の発達も追い付き始めたのか、急に勉強が理解できるようになったり、周りへの視野が広がりだした小学校高学年でした。

地元の中学が荒れていたので、ボコボコにされないように私立を受験。
何とか合格し、地元と離れたところだったこともあり通学が大変でしたが、比較的楽しい3年間を過ごせたと思います。

そして、エスカレーター式に内部進学するのですが、内部生より倍以上の外部生が入ってくることで、友人関係が大きく変化。
同時に、厳しい校則、長い授業時間(8時間目とか、隔週土曜など)で疲弊。
担任や、苦手な数学の先生と合わなかったことも重なり、1年生の12月に不登校に。

日本社会において、学年が1つ下がってしまうことによる劣等感や周りの目線を考えた母が、通信制高校への転校への道筋をつけてくれます。
ちょうど2年生になる4月に転入し、地元を離れました。

リスキーな転校でしたが、「もう勉強しなくて良い」という晴れやかな2年間を過ごし、生まれてからずーっと劣勢だった私が、学力面においては圧倒的優位な状態も嬉しかったのかもしれません笑
通信制と謳っているものの、週5通うタイプだったので、友人にも恵まれ、本当に転校して良かったと思います。

ただ、同時に親への反発がやってきます。
今でもこの頃の話を母としますが、母としても今まで思い描いていた子育て論が転校という事実によって否定された気持ちが大きく、同時にそこまで子どもを追い込んでしまった自責感もあったようです。
私は、母の言う通りにやってきたのに、上手くいかないじゃないか!という思春期特有の責任転嫁で母を責め立てていました。
ずっと病院、看病、受験、と母と二人三脚で仲良くやってきた分、お互いに辛かったなと思います。

ただ、タイミングとしては良かったなと思う理由として、親元に未練なく1人暮らしがはじめられたことです。
大学入学と同時に、キャンパスのある横浜で1人暮らし♪
あんなに当たり前にでてきた料理、当たり前に相談出来たこと、色んな当たり前が親の保護のもと、保証されていたことに気づかされます。
最初は、「自由だ~!!」って気持ちなんですが、もう半年も経った頃には半べそ…。
でも、啖呵切って出てきた分、意地もありました(笑)(若かったな)
2012年にはアルバイトも始めて、そこで交友関係が広がり、1人暮らしが苦にならなくなりました♪

2013-2022

2013年は、大学3年生。
キャンパスが横浜から、都内に変わったのですが、アルバイトの交友関係や家賃関係から、横浜からの通学を選択。
大学2年の秋に大量に落とした単位を取り戻すべく、頑張っていました(笑)

アルバイトは卒業まで3年間働ききり、大学も無事卒業。
2015年から、新社会人となります。

私、趣味がクルマなのですが、その趣味界隈にいる人間は苦手というジレンマがあるのです。
しかし、それにまだ気が付いていなかった私は、界隈で有名な会社に入ります。
そこで待っていたのは、ザ昭和企業。
上げればキリがないので止めておきますが、表現するなら転校する前の高校のような世界。
ただ、私は卒業したての新入社員。
転職するスキルがあるわけでもなく、自信もなく、ひたすらに先輩や上司から言われることを実現可能な方向へ回すことだけを考えて必死でした。

企業自体は、私の趣味を生業としているので、そこに対する執着もありました。
大好きな趣味の現場で働けている自分と、辛い自分の、両極端が綱引きをしているような感じ。
同時に、地元へは帰りたくないので、1人暮らしを続けるとなると会社を辞めるわけにはいかない。

最後の頃は、もう業務の優先順位もつけられないほどに疲弊し、2018年末にパニック発作を起こします。
幸い?、会社内で発症しなかったのですが、一度起こってしまった発作は、もう毎日止まらないほどの頻度で起こり、クルマ通勤だったのもあり運転できない(危ない)ということで、休職となりました。

もう人生終わった。
結局は、生まれた時から欠陥品なんだ。
生きてる価値はない。(消費だけする生活)

そんな風に考えていましたし、実際に3日間水だけで過ごしてみたりしました。
そんな気持ちでも、3日目には食べ物を食べてしまう自分が、「こんなになってまでまだお前は生きたいのか!」という忌々しい気持ちでした。

パニック障害後に、うつ病を併発し、発症から1年は本当に身体も心も死んでいたなぁ、と思います。
でも、それでも生きていかざるを得ないことを徐々に受け入れはじめ、退職後に就労移行支援に入所します。

入所時には、障害者手帳はもっておらず、診断書があれば通えたのは嬉しかったですが、私はこんなところで何をしてるんだろうか?という気持ちも少なからずありました。
できて当たり前のことで、「できましたね~♪」とか「すごいですねー♪」とスタッフさんから褒められても、素直に受け止めることはできませんでした。

ただ、通所を重ねていく中で、自身の持つ「完璧主義」が、自分が本来持つものだけではなく、一種の理論主義のような洗脳状態にあることに気づいていきます。
「当たり前」が、「当たり前」でない人も、たくさんいる。
ということは、「当たり前」が「当たり前」にできるのは、ありがたいこと。

少しずつそれを受け入れていく中で、「当たり前のこともできないダメな自分」から、「最初からできなくて当たり前な自分」という基準を下げることで、自己否定や劣等感が薄れていきました。

2021年に障がい者雇用で再就職を果たし、2023年現在も働き続けられています☆

30年を振り返って

他にもたくさんの葛藤や出来事はあるのですが、端的にまとめるとこんな感じです。
身体の発達が追い付かなかった幼少期、
できることが増え、普通になろうと頑張った中学と新社会人期、
転校と障がい発症という2度の挫折、

30年史で、ここまで数多くの出来事を語れる人は珍しいんじゃないか、など思ったりもします(笑)
書きませんでしたが、思春期以降は「男らしさ」の不快感と、自分が男性性であることの嫌悪感とも戦っていました。(これに関しては進行形でもありますが)

けれど、良いことも悪いことも、全て私の経験として今詰まっていて、当事者だからこそ共感したりできることがあるんじゃないか、と思っています。
それが、私が少しずつnoteを更新する理由です。

次の10年史がどうなるのか、どうしていきたいのか、そんなことを考えながら、note書初めにしたいと思います☆

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ひなた

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