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養老先生の愛猫「まる」を通じて愛犬「パル」を偲ぶ~パル ありがとう~

我が家の愛犬「パル」が大往生してから2週間近くが経とうとしている。

日々、少しずつ、少しずつ、本当に少しずつペットロスが軽くなってきてはいるが、今でも家の中で愛犬の残像が目に浮かんでしまう。

そんな折、図書館で「まる ありがとう(養老孟司 著/平井玲子 写真)」を借りて読む。

養老先生が飼っていた猫「まる」の死を受けて書き綴ったエッセイである。
まるとの出会いと日常、生きていく術、死、ペットロス、生き物らしさなど、かけがえのない存在だったまるの死に直面して考えたことを、養老さんが語りつくしている。

猫と犬の違いはあれど、「まる」を我が愛犬の名前「パル」に置き換えて読んでも違和感がない。
「まる(パル)がいること」が日常だったのに、いなくなるということ。
それが受け入れられないことで生まれる何とも言いようもないロス。
さすがと言うべきか、養老先生は的確に?その気持ちを表現してくれている。以下、本書からの引用である。

死んでしばらくは玄関の引き戸の隙間を残す癖がなかなか抜けず、うっかりしっぽを踏まないように足元に気をつけたり、居そうな場所にふと視線が向いたりそういうときに、

いないな、何でいねえんだよと思う

ああ、そうか、死んだのかと気付く


まるがいなくなって、ほぼ一年になる。まだついまるを探す癖は抜けない。まるが好んで寝転がっていた縁側に目が行く。ポンと頭を叩いて、「バカ」というと、少し迷惑そうな顔で薄目をあける。それができなくなったのが残念である。ときどき骨壺を叩いてみるが、骨壺の置き場所が、まるがふだんいたところと違うので、なんだか勝手が悪い。

ものごとを理屈にすることに長年励んできた。八十歳を十分に超えてみると、バカなことをしたものだと感じている。理屈で説明しようがするまいが、ものごとが変わるわけではない。その意味では、理屈にすることは一種の虐待であって、何に対する虐待かというなら、「生きること」に対する虐待であろう。

まるは理屈なんか言わず、素直に生きて、素直に死んだ。いまでも時々しみじみ会いたいなあと思う。

また別な猫を飼ったら、といわれることがあるが、それでは話が違うのである。まさに一期一会、かけがえがないとは、このことであろう。

理屈など言わないまる(パル)、養老先生(私たち家族)にとって愛猫まる(パル)は「ものさし」、生き物として自然な感覚を思いださせてくれる存在だった。


毎日でも言いたい。

パル、ありがとう


若いときのパル❤
忘れないよ


▼以下、本書要約▼

🔹NHK番組「まいにち養老先生、ときどきまる」にてブレイク
 まるから多くを学んだことは紛れもない事実
 いないな、何でいねえんだよと思う
 ああそうか、死んだのかと気づく

🔹ペットロス
 「死」が極端に遠ざけれられた現代の“都市化”影響
 「生」への期待が極端に高まっている⇔九相図(中世)
🔹まるはしゃべらない、感謝も忖度もしない
 人がしゃべったことは信用しない(戦争体験)
 言葉が支配する社会ー言葉に実態を合わせようとする
 言葉が介在する社会=疲れる
🔹人間=意識優先、何にでも意味づけする
 動物=感覚頼り、言葉は音
 まるをものさしに自分の生き物としての自然な感覚を忘れないよう調整
🔹人間は元来理屈に合ったものではない
 ⇔理屈に合うものが正しい(現代人)
 大切なものほど、言葉になんかできない
🔹足るを知るー周りの影響受けないまる
 佐藤愛子=自足、坂口恭平(躁うつ病)=居心地の悪い所から去る
 ⇔都市社会(自足を奪う)
老後が心配→まる「自分がいつ死ぬか分からないのに何を心配してんだよ」
 自足できる時間を持つ人は強い
🔹死について考えるのは人間だけー宗教誕生
 死ぬことを考える≠まるの世界
 人間は自然の一部ということを忘れている
🔹まるがいなくなって1年
 なぜまるは我が家へやってきたのか
 →まるはそこにいた、それでじゅうぶんではないか


先々週に亡くなったこともあって、思いがけず愛犬投稿が3週続いてしまいましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
もともと、娘がペットを飼いたそうにしていたことがきっかけで犬を飼うことになったのですが、気がつけば家族全員、そして何よりも私自身が大きな影響を受けていました。58年目の情操教育を受けた次第です笑。
が、いつまでも悲しまず、パル(まる)から学んだ「足るを知る」の精神で今後の人生を歩んでいきたいと思います。
そう、人生こそ最大の「不要不急」なものですから。

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