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【読後感】廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(岩波文庫)

 本書は廣松渉の主著の一つ。人間を「共同主観的存在」と見る立場から、認識論の乗り越えと再生を目指した廣松哲学。1972年に書かれた。彼は戦後日本を代表する哲学者の一人。
 本書は大きく前半と後半に分かれる。その前半は、「主観ー客観」図式の閉塞感から始まり、認識論の現象的世界、言語的世界、歴史的世界へと辿ってゆく。
 後半は、共同主観性に触れ、判断の認識論的立場、デュルケーム倫理学説の批判的継承、となっている。
 ただし、判断の認識論的立場については、ある限定がある。それは、判断に関わる省察は、古代ギリシア哲学のアリストテレスも命題論で考察されている。だが、判断が認識論的に省察されるようになったのは、近代哲学になってからという立場を廣松は取る。なので、近代認識論の地平における判断論的省察のみを扱う。

 「主観ー客観」図式で彼は一言を呈する。
 例えば、認識論の現象的世界では、「いま、時計の音が私に聞こえている」という事態の考察が見事だった。(廣松渉『世界の共同主観的存在構造』岩波文庫、2017年、69頁)
 現象は、一般に、初めから私の(人称的)意識に属する「主観的」なことがらだとされる。だが、現象的な世界は、元来、前人称的・非人称的であることの確認から始めなければならない、と廣松は言う。音は、私の生体や「物的」環境のみならず、「文化的」環境をも含めた世界の総体に属する。なるほど、この際、私の介在のしかたと他人の介在のしかたは異なるが、その点では当の時計の個性的介在とも同断である。だから、現象的な世界は、前人称的・非人称的と言う所以である、との事。

 書名にある「共同主観的存在」とは人間のことである。
 解説で熊野純彦は言う。
 「廣松が「世界の共同主観的存在構造」を主題とするとき、問題の共同主観性は、なによりもまずことばの共有に裏うちされた共同主観性なのである。言語をめぐる思考はそれゆえ、世界をめぐる廣松の思考の中心的な部分に、あらかじめ食いこんでいるといってよい。ことばの共有に裏づけられた共同主観性を問うことは、たほうではまた世界そのものの歴史性を問題とすることにほかならない。」

 私見としては、難解な書物だった。だが、分からないなりに夢中に読める所もあった。「分からないけど、分かりたい」。そう思わせてくれた。普段の自分の日常的世界とは違う「異世界」を味わうことができた。これは突飛な絵空事ではない。日常生活に裏打ちされた論考の世界だった。決して嫌なものではなかった。廣松の思考の海を泳いでいる氣分だった。時折、本の世界に一体感を感じることもあった。その充実感。そして、読み終えたときの達成感。これはかけがえのない時となる。一冊で思考の旅をした。
 哲学の認識論の歴史の中で一石を投じた一冊。認識と言葉と人間と。

(2019.11.19 読了)

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