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金木犀3

ー 1 ー

「いやあ、結月ゆづきが相変わらずのひねくれ者で私はなんだか安心したよ」と陽乃はるのが笑いながらビールを口にした。
「私はひねくれてるつもりは全くないけれど陽乃くらい楽観的だったらもっと楽だったなとは思うよ」
それ褒めてるのと言いながら彼女はまたけらけらと笑っている。
今日は久しぶりに高校からの友人である陽乃に会っていた。高校を卒業してからは大学在学中に数回会ったくらいで、社会人になってからも連絡は取り合っていたけれどお互い仕事が忙しく顔を合わせるのは一年振りだった。

「あれだけ絵を描くのが大好きだった結月が美大には行かないと聞いた時にはグレてしまわないか心配だったのよねえ。それがこんなに素敵な大人の女性になっちゃって」

年末年始に久しぶりに顔を合わせた気の良い親戚のようなことをそれっぽく言うので可笑しくて笑ってしまった。

「グレないよ。もちろん描くことは好きだったけれど絵で食べていける自信はなかったし、一応自分の心と折り合いをつけた結果だったから」

「立派だと思うよ。実際食べていけるのはごくわずかな人たちだけだからね」

彼女にそういう意図はないとわかっていながらも大人という単語が皮肉に聞こえてしまうのは未練があるからなのか、今の生活に潜在的な不満を抱いているのかどちらなのかはわからなかった。幼い頃から絵を描くことが好きで、暇さえあれば何か描いていたように思う。徐々にお絵描きから風景を描くようになって、自画像や抽象画など中学にあがると様々なモチーフで表現するようになった。同級生達はアイドルや恋愛の話で盛り上がっていたけれどあまり興味は持てず、絵を描いているということも特に公言はせずに雰囲気だけ話を合わせていた。そういう意味でも、こうして未だに会いたいと思える友人がいるだけで美術科に進んで正解だった気がする。ただ、美大には行かず長らく描くことをやめてしまっている現状を省みるとつまらない選択をしてしまったような気もしていた。描くことの次に時間をかけたものといえば文学だったため、文学部に進学してそのまま出版社に就職した。仕事はやりがいはあるし特に不満があるわけではない。プライベートも楽しく過ごしているけれど、心の底から充実していると言える人生を歩めているかと問われると、自信を持って首を縦に振れない気がした。自分の人生だというのに、どこか他人事のように感じる現状を賑やかな居酒屋の中で省みながら、自分だけこの世界がなくなる重大な秘密を知っている人間はこんな気分なのかもしれないという変な妄想をしていた。

「割と話したしそろそろ出よっか。次はしっぽり飲みたい気もするしバーにでも行く?行きたいお店あったりする?」

陽乃の華奢きゃしゃな腕と同じ位の体積がありそうなビールの特大ジョッキを飲み干したところで彼女が言った。陽乃は酒飲みで、今日も凄まじいペースで飲み続け空のジョッキを量産していた。その飲みっぷりを見せつける彼女の口からしっぽりという言葉が出てくるあべこべさが可笑しく、またも笑いそうになる。引くほどのペースで吸い込まれていくビールがその体のどこに溜め込まれていくのかも気になった。

「特にないかな。陽乃が行きたいところでいいよ」

「了解。それならてきとーに歩いて良さげなお店に入ろうか」

ー 2 ー

会計を済ませて店を出ると入る前より街がかなり賑わっていて、店前に設けられているキャンプやバーベキューで使うような簡易テーブルと酒瓶ケース等で作られた椅子の席で楽しそうに飲む人達の声が上野の街に響いていた。陽乃が御徒町の方に歩き出したのでそれに合わせて歩き出す。

「そういえば今は恋人はいないの?」

「いないね。好きな人もいい感じの人もいない」

「大学の時に付き合っていた先輩と別れたって言っていたものね。そういえばどうして別れたんだっけ」

「会いたい頻度とか趣味とか合わなくって結局浮気されて別れたよ」

「そうだったそうだった」と彼女が頷く。

「今思うと彼にあまり関心も無かったし多分そんなに好きじゃなかったんだろうね。告白されてよく考えずに交際した私も悪かったと思ってる」

「いやいや結月は悪くないでしょ!浮気はどんな理由があれ悪だよ〜」と彼女が眉間に皺を寄せながら言った。いちいち仕草や表情が可愛く、こういう子がモテるのだろうなと思うし、実際高校の頃は男子から人気がありよく告白されていた。陽乃の恋愛事情も気になったため訊いてみる。

「私も仕事でそれどころじゃないなあ。飲みに行ったり遊んだりする人はいるけどデートって感じでもないや。大学の同期が結婚するらしくて。みんなどんどん結婚していって少しずつ会う友達も機会も減るのかななんて」という意外な答えが返ってきた。
たしかに晩婚化が進んでいるとはいえ、あと五年も経てば周りの知人や友人たちも大方パートナーを見つけてちらほら結婚していくのだろうなと思った。自分が五年後に誰かといる姿を一瞬想像したが、現状から結婚している未来なんてイメージできるはずもなくすぐにやめた。今までの交際経験は大学時代の彼一人きりで、今後自分が性愛的に誰かに夢中になる姿はおよそ想像できなかったし、他人と生活を共にすることも、ましてや子どもを授かり育てることも自分にはできる気がしなかった。一度だけの交際経験もよく分からないまま時間が過ぎていって気づけば終わりを迎え、これは自分に問題があったのだと薄々感じていた。
浮気を簡明に彼のせいにできる性格であればここまで生きづらいと感じることはなかったのかもしれない。その行為だけを切り取ればそれは確かに悪だとは思うけれど、浮気をした側にだけ責任を押し付けて無罪を決め込むことはどうしても自分にはできなかった。

「朝田じゃん!久しぶり何してんの!」

陽乃が突然大きな声を発したため体がビクッとした。

「おお、夏川久しぶり。飲んでて二軒目探しているところだよ」と陽乃とは対照的に毎日顔を合わせているかのようなテンションで男は言った。
向こうも二人組で、朝田と呼ばれる男の連れのひょうきんそうな男がこんばんはと言ってきたのでこんばんはと返した。朝田と呼ばれる男は私に軽く会釈をした。私も会釈で返した。

「私たちも二軒目探しているところだよ。あ、結月、この人は大学の同期だった朝田。前に話した変な奴。で、この子は結月。高校の同期の仲良し」

「どんな紹介のされ方してたんだ」と朝田が笑った。
「こちらは今一緒にギャラリーやったりしてる山本さん。で、こっちは同期の夏川です」

既知の二人から初対面同士のための簡単な紹介が行なわれ、二度目の会釈を交わす。
そういえば度々話題に上がっていたっけ、と思い返し朝田を見る。彼はカーキの丈の長いモッズコートに薄いベージュのカットソーと茶色のワイドパンツを合わせていて、パーマなのか天パなのかよくわからない黒髪は鳥の巣みたいだった。まあ間違いなく普段スーツを着ていないことはわかる。細身で全体的に薄い顔でありながら、眉間から伸びる鼻筋の高い鷲鼻と唇の左下にあるほくろが印象的だった。主役ではなく助演で、作品に奥行きを与える自然体な演技が良い味を出す舞台俳優にいそうな顔だと思った。
耽る間に勢いに任せた陽乃の雑な紹介で雰囲気がより和んでいて、私を除いた三人で軽く談笑していた。そして彼女が彼に声をかけた時から嫌な予感はしていたけれど、やはりその予感は的中した。

「良かったら一緒に二軒目行こうよ。結月いい?」
可愛らしい目の中のキラキラとした光が私に訴えかけている。別にすごく嫌という訳ではない。たしかに主要な話は先程のお店でほとんど話したけれど、知らない人間を二人も交えて飲むとなると少し気が重かった。それにさっきのしっぽり気分はどこへ行ったのか、見つけてきてもう一度口から体に押し込みたかった。

「んー…。まあ別に問題はないけれど」

「強引すぎるだろ。無理しなくてもいいですよ」と朝田が微笑みながら言った。

「いえ、別に嫌という訳ではないので」

「夏川ちゃんおもろいなあ。適当にその辺の居酒屋にでも入る?」
山本さんが決定打となる余計な一言を放った。

「そうしましょう!結月と朝田話してみてほしいし」

ー 3 ー

ものすごい勢いで一緒に飲むことが決まってしまい、立ち話をしていた道の目の前にあった居酒屋に入った。先程は焼鳥が売りの大衆居酒屋で飲んでいたが今回は海鮮系の居酒屋だった。店の雰囲気はあまり変わらず、暖色系の強い光を放つ照明が眩しいお店だった。
はじめの方は朝田と陽乃の大学時代の話や朝田と山本さんの出会い話からギャラリーの話などをしながら四人で話していたけれど、だんだんお喋り二人組が主で話すようになり、それを朝田と私が聴いている構図ができあがっていた。どんどん話が展開されていき、山本さんの恋愛の話に陽乃が興味津々で聴いているところに突然朝田が私に話しかけた。

「目玉焼きってさ、いうほど目玉って見た目してないよね」

つい先程運ばれてきた、酒のさかなに頼む人がいるのかわからないハムエッグをつつき、煙草の煙を吐き出しながら朝田が言った。

「え?はあ、たしかにそうですね」

「それこそ、目玉焼きこそ卵焼きって名前でいいと思うんだよね。そのまま焼いてるんだから。本来の玉子焼きは料理だしね、しっかり。強いて名前を付けるなら、なんかもっと、二重丸焼きとか、太陽焼きとかの方がしっくりくるんだよな」

「目玉焼きの方がキャッチーですね」

「ははっ。たしかにそれはそうかも」と朝田ははにかんだ。

陽乃が話してみてほしいと言っていたけれど、結局私達が二人で交わした会話はこれっきりだった。朝田は卓上にあった辣油らあゆを目玉焼きにかけていた。たしかにこいつは変な奴だと思った。


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