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日本教の社会学

小室直樹と山本七平の対談本から。
宗教、軍国主義の話は、また改めて記事にする予定です


第1部 日本社会の戦前、戦後

・足利から戦国時代ごろにあった「一揆契状」という契約書が、日本の民主主義の原型ではないかという話。
https://ja.wikipedia.org/wiki/傘連判状

みんなで何かを決める、そして最後にサインするときに大きく丸を書いてその周辺に各人がサインしていく。これは和傘を上から見たような形になりますから「傘(からかさ)連判」というんですが、筆頭人がいないんですから、誰がリーダーかわからない、その点、全員平等です。同時に何かあったとき、この連判した者が集まりいろいろなことを決める。
(中略)

西洋の場合であれば、責任者を明確にして、そして決断の主体を特定するというところに民主主義の出発点があるわけでしょう。日本ではまったくその逆でして、決断の主体が誰だかわからなくして、決断の内容を分散すると、それが民主主義だと。

p14 日本人の多数決

・あらゆる出来事を「天変地異」として受け止めるため、それに合わせて自分たちのやり方を変えるだけで、相手を何とかしようなどという発想が生まれない。

おそらく昔の日本人にとって恐かったものは天変地異だけなんですね。そして天変地異に対していかに処するかだけです、発想は。これは武家法、たとえば『貞永式目』なんかでもそうで、なにしろ天変地異が恐い、これをどうするか。

もしそうなった場合に為政者のやるべきことは、これに対応していくこと、これだけなんです。ところがお天気とは契約するわけにいかない、なにも方法がない。だからひたすらこちら側が相手に対応し、自分の方の基準を変えていくだけである。これは戦後のあらゆる問題への対処に出てくる日本人の発想の基本でしょうね。

p22 オイルショックも天変地異

商人なければ自由なし

日本人にとって「自由」の概念とは。

日本語にも自由という言葉が徳川時代にあるんです。

まず、「商人なければ自由なし」というまことに面白い定義が鈴木正三に出てくるんです。これは需要と供給との間をちゃんとつないで、不自由を感じさせないのが商人の任務である。

だから「商人なくして世界の自由、成るべからず」という……確かに日本人にとって、こういう自由という概念はあるんです。いわば、不自由の解消です。

p40 自由を阻害するもの

もう一つ出てくるのは石門心学の終わりの方になるんですが、布施松翁という人も、どうすれば人間は自由になるかを論じている。彼は自然とは全部「からくり」であるという機械論的宇宙論を展開する。
(中略)
宇宙は全部「からくり」で、太陽が回ってるのは大「からくり」。水が高い方から低い方へ流れるのも「からくり」。

そういう「からくり」の中で人間は生きているんだ。だから、この「からくり」にそのまま身をゆだねて、少しも抵抗を感じない状態になってるのが人間にとっての自由であると。今の日本にとっても、おそらく社会組織まで「からくり」なんです。

だから、こういう「からくり」にそのまま身をゆだねて、抵抗しちゃいけない。抵抗してギクシャクすることが人間にとっての不自由なんだ。そのまま身をゆだねて、何にも抵抗を感じない心理状態になるのが、すなわち自由なんですよ。

p40 自由を阻害するもの

「自然」は良いもの

この「からくりに抵抗しない」状態は、「自然」にまつわる考え方にも通じるところがあったので合わせて引用する。

小室 日本人が「自然」といった場合は、西洋人が「自然」というのと全然違うということは間接的には多少触れたんですが、ここでさらにつめて論じてみましょう。

山本 日本人の「自然」という言葉は、自己の内心の秩序と社会秩序と自然秩序をひっくるめた言葉で、この三つは一致すべきもの、一致したものであるというのが基本的な意味でしょう。以上の三つが全部「自然」なんです。

ごく「自然」にやらなくちゃいけない———これも「自然」を尊べでしょう。「あれのやり方は不自然だ」は、だからいけないの意味でしょう。社会がこんなだとは不自然だ———こんないい方にもなるでしょう。これ全部基本が同じなんですよ。しかも、これが絶対的な規範となっているんです。ですから、天秤の支点である人間の立脚地は「自然」なんです。

p174 絶対善としての「自然」

儒教の五倫

 中国語だと日本語の「自然」のような言葉はなく、人間以外の自然を「天地」といい、人間の内なる自然のことを「性」と区別している。こちらの文化では自然=無規範であり、無規範に属するのは禽獣である。人間は禽獣ではないので、規範(五倫)に従うべきという考え方だ。

「それ舜の服を着し、舜の言を唱し、舜の行いをおこなえばこれ舜なり」っていうんですからね。中国人にとって、「本心」なんかどうでもいいんで、決定的なときにしかるべき行動をとるかどうか、これがすべてだと思います。

親孝行であるかどうかの判定規準もそうですし、友人のあいだの「信」でもそのとおりです。マニュアルが準備されているわけで、そのとおりにするのが「信」、そうしないのは「信」ではありません。
五倫というのは、まず君臣の義あり、父子の親あり、夫婦の別あり、長幼の序あり、朋友の信ありの五つで、その他すべての規範はこれから導出しなくちゃならない。

p180 中国には「本心」がない

中国には「孝」のマニュアルが厳然とあるんですからね。たとえば、父親が死んだときには、何オクターブの声を出して、何といって何時間泣けとか、三年間どんな着物着て、どんな家に住んで、何を食って喪にふくせとか、みんな決まってます。それに合うのが親孝行、合わないのが親不孝。

p107 忠孝の概念が無原則

中国であれば、君主に対する忠誠=「義」と、親孝行=「孝」は別のドグマなのだが、日本ではそこが混ざってしまっている。

山本 戦前の軍隊において「おれ、もう軍隊いやだ。早く帰りたい」といっちゃいけなかったわけですが、いう方法があったんです。「ああ、おれは親孝行がしたいな」といえばいいんですね。そのとき絶対に「早く帰って親孝行がしたいとは何事だ」っていえないんですよ。いえないから、この表現を使えば絶対だいじょうぶだと兵隊は知ってるわけですね。

小室 「親孝行したい」ならばいいですけれど、「恋人にあいてえな」などといったら半殺しの目にあう。

p108 貫徹しない天皇制の論理


契約のない社会

・社会的自由というのは、簡単にいえば公権力はプライバシーに入ってくるなということで、外面においては責任を取るけれども、内面においては責任を取らない。宗教的自由なども同様で、近代デモクラシーの重要な部分である。

・日本の企業では、上司に対する態度は内と外の両方で従うことが良しとされていて、内面の自由は存在しない。上司が野球が好きなら野球を好きになり、ゴルフが好きならゴルフを好きにならなくてはいけない。

(何も日本に限ったことではないような気もするが、こちらの本では一応「アメリカでは違う」とされている)

奴隷の主人に対する言葉は、「聞いたことは従うことでございます」というんでしょう。奴隷が主人の命令を聞いた以上、それがいかなることであれ、正当性を問うことは許されない。

p54 オスマン・トルコ式奴隷制

・個人が集団から析出されておらず、たとえば犯罪についても、犯人と同じ会社の人間にまで影響が及ぶ。大学生が犯罪を犯すと学長が頭を下げるのである。

 罪九族に及ぶ、というのは中国の原理ですよね。つまり、中国の場合には、重罪は本人だけではなく、彼が属している宗族(基本的な父系集団)にも及ぶ、という意味。ここで重要なのは、宗族は血縁集団であって機能集団ではない、ということ。

ところが、日本の場合、それとも違うんで、家族や宗族に及ぶだけでなしに、機能集団にまで及ぶ。彼が属する会社にまで及ぶでしょう。

p54 罪は九族にとどまらず

・戦争中、ノモンハンなどの局部的な敗戦においても、軍法会議にかけられた軍司令官がいなかったらしい。切腹した人はいるが、本当にその人の責任かどうか、議論されないまま当人が自殺しているのである。

小室 つまり、山本さんが書かれているように、日本人における責任というのは、本人が責任感を感ずれば、もう責任はなくなる。

山本 ええ、なくなるんです。だから「私の責任です」といった瞬間に責任はなくなるんです。そういうのが日本的責任のとり方ですね。だから「私の責任です」といったからといって追求すると、「おれの責任だっていってるのになぜ追求するのか」ってことになるでしょう(笑)

p100 日本軍隊の責任の取り方


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