ぼくのかんがえたさいきょうのけっこんせいど(多夫多妻制の提案)

◆21世紀の結婚制度はどうあるべきなのか?

選択的夫婦別姓、同性婚など、結婚制度の在り方に対する議論が、このところよく語られる。もっとも、夫婦別姓の議論は、随分昔からあるものの、一向に実現されないという感じもする。だが、同性婚については、少なくとも30年くらい前にはまったく議論されなかった話題なのではないか?

世の中の「常識」などというものは、常に移り変わるものだろう。夫婦、家庭、結婚という私たちの最も基本的で身近な営みついても例外ではないと思う。

そこで、選択的夫婦別姓とか、同性婚などという問題を飛び越え、これまでの常識にとらわれずに、これからの「結婚の在り方」というものを考えてみたい。

私は、この「常識とらわれない」という姿勢がとても好きだ。以前、選択的夫婦別姓が話題になったとき、私はいつもの、この「常識にとらわれない思考」により、「そもそも、もう苗字とか廃止したらよいのではないか?」と提言してしまい、議論の仲間に入れてもらえなくなった経験がある。

それはさておき「21世紀に相応しい結婚制度」である。

この点で私が提案したいのは「多夫多妻制」だ。

◆多夫多妻制

現在の結婚制度は「一夫一婦制」である。これについては、特段説明の必要もないだろう。1人の男性と1人の女性が結婚し、夫婦となる。すでに配偶者のいる男女が、他の者と重ねて結婚することは禁止されている。重婚は、犯罪にもなっている(刑法第184条)。

(重婚)
第184条 配偶者のある者が重ねて婚姻をしたときは、2年以下の懲役に処する。その相手方となって婚姻をした者も、同様とする。

かつては「一夫多妻制」というものも行われており、現在でも一部の国ではそうなのかもしれないが、この制度が男女平等でないことは疑いがなく、現代にそぐわないことは明らかだ。

だが、男女平等ということだけであれば、必ずしも「一夫一婦制」である必要はない。「多夫多妻制」でも、男女は平等であり、不平等の問題は生じない。つまり、「多夫多妻」も、法の下の平等を定めた日本国憲法第14条には何ら違反しない。

私が「多夫多妻制」の話をしたら、「結婚は契約なのだから、2人の当事者でなければならないのではないか?」という疑問を呈した人がいた。だが、それは問題にならない。

確かに、契約は2人以上の意思表示の合致によって成立する法律行為であるが、「2人以上」であればよく「2人でなければならない」わけではない。実際、売買や賃貸借など身の回りの多くの契約は、2当事者で交わされることが多いが、民法の規定する「組合」という契約は、2人よりも多い人数で契約することがそもそも予定されている。

(組合契約)
第667条 組合契約は、各当事者が出資をして共同の事業を営むことを約することによって、その効力を生ずる。
2 出資は、労務をその目的とすることができる。

そして、そういう目で民法の組合契約の条文を読んでみると、結婚とは、まさに組合契約ではないか、という感じすらして来ないだろうか? 複数の人が、お互いの幸せのために家計を共同にして、遊んだり、子を育てたりして生活する社会の基本的な単位が結婚であり、家庭であろう。

つまり、話を戻せば、「多夫多妻制」を採用することに、現行法上何らの問題があるとは思えないのである。

◆その利点は何か?

もしこのような制度を採用することの適法性に問題がないのであるとすれば、あとの問題は、そのような制度を採用することが法政策的に優れているかどうか、であろう。つまり、その利害得失である。

では「多夫多妻制」は、どこが優れているだろうか?

第1は、家庭を維持・存続させ、そこに所属する人が幸せに暮らしていくうえで、多くの人々の協力を可能とする、ということがある。

例えば、月12万円の稼ぎで1人が暮らしていくことはしんどいが、月12万円の稼ぎの人が2人で協力し、一世帯の稼ぎが月24万円になれば、生活は結構ラクになる。そしてこれは、3人になれば月36万円、4人に増えれば月48万円と、どんどんラクになる。だから、多夫多妻制を採用し、2人の夫と2人の妻の4人で家庭を組めば、たとえその中の1人が病気になったり、妊娠したりして働けない時期があったとしても、他の3人がこれを支えてやりすごすことができる。

これが一夫一婦制で、夫婦のどちらかが病気で倒れたりしたら、もう一方はすごく大変であり、悪くすれば「共倒れ」になってしまうかもしれない。

もちろん、裕福な人は、一夫一婦制でも差し支えない。多夫多妻制は「必ず夫や妻が複数人でなければならない」ということを強制する制度ではないから、自分が「多夫」や「多妻」に抵抗があるという人は、これまでどおりの一夫一婦の夫婦をすればよいのである。

以上のように「貧しい人たちが助け合える」ということが、多夫多妻制の最も大きな利点である。

◆別姓や同性婚の問題が消える?

第2の利点は、多夫多妻制を採用した時点で、現在の結婚制度に関連して男女が抱えている多くの問題や悩みが解消される、ということがある。具体的には次のようなことだ。

まず「同性婚」は、当然OKということになる。なぜなら、例えば、2夫1妻の夫婦があったとして、不幸にして妻が亡くなったとしよう。この場合、残された夫2人はどうなるか。おそらく、この時点で「夫夫」を解消しなければならないということにはなるまい。彼らには子どもが居るかもしれないし、この子どもたちは「種違い」のきょうだいで、仲良しかもしれない。このような「夫夫」を、妻が亡くなったということで解消させる必要はないし、そんなことは妥当でもない。そして、このようにして発生した「夫夫」状態を許容するのであれば、最初から「夫夫」や「妻妻」でどこが悪いのだということになるだろう。つまり、多夫多妻制を認める以上は、当然のこととして、同性婚は許容されることになる。

また「夫婦別姓」の問題も解消されるだろう。夫夫妻妻という4人の夫婦を考えた場合、そこで統一の苗字にしなければならないという「枷」をはめることは、もはやナンセンスだろう。多夫多妻制を採用した時点で、そんな面倒なことはできないので、「姓を一緒にしたいならすればいいけど、統一しなければならないとは要求しない」という制度を採用せざるを得なくなる、と思われる。実際、戸籍制度との関係で言えば、せいぜい戸籍の筆頭者がだれかを決めておけば足り、同一戸籍の中の者が全員同じ姓でなければならない、という必要性はまったくないだろう。

それから「不倫」という問題もなくなるのではないかと思う。そもそも、一夫一婦制を前提に、既婚者は重ねて結婚をすることができないから、既婚者が未婚の者と恋愛関係に陥ったり、性関係を持ったりすることが「不倫」として問題視されるのだろう。これに対し、多夫多妻制にした場合、最初から「2夫2妻の夫婦」というのは考えにくく、何らかの形で「1夫1妻」から次第にこのようなカタチに発展していくものと思われる。そうだとすれば、その形成過程において「1夫1妻」が、新たな夫や妻を招き入れる前段階として、既婚者と未婚者との恋愛関係や性関係をも、制度が当然に予定していると考えられるのである。

更に言えば「2夫2妻」の形成過程として「1夫1妻」の2つの夫婦が合体して形成されるということも考えられる。そしてこれを考えるならば、既婚者同士の恋愛や性関係も、基本的にはOKと見なければならないことになるだろう。だから、現在「不倫」と呼ばれてる恋愛関係、性関係も「不倫」ではなくなる、と思われるのだ。

もっとも、これは、この制度が万人にこのようなことを強制する、という意味ではない。裕福な人が「自分は一夫一婦制」がよいと思えば、夫婦でそのような約束をし、お互いに貞操義務を科せばよいのである。それは、その夫婦の自由であり、多夫多妻制はそのような合意を禁止するものではない。

それから、子どもが出来なくて悩んでいる夫婦の「不妊」の問題も、ある程度は緩和されるのではないか、と思う。おそらく多夫多妻制が実現されれば、その夫婦に属するいろいろな組み合わせの男女から「その家庭の子ども」が生まれることになる。最初はともかく、しばらくすれば「血縁」という問題が相対的に希薄になってくるのではないか、と想像される。そうなれば、仮に不幸にして自分の子どもを作ることができない夫や妻も、その家庭の子どもたちの「母」であり「父」となることによって、子を持ち、育てるという喜びを味わうことができる。そして、このような多くの父母から愛情を注がれることは、その子どもたち自身にとっても決して不幸なことではないような気がする。

以上のように考えると、同性婚、選択的夫婦別姓、不倫、不妊などの問題は「多夫多妻制」という「ぶっ飛んだ結婚制度」を採用した途端に、すべて解消されてしまうのではないか、と思われるのである。

◆夫婦でバンドを組もうか?

そして第3の利点は、これがとても重要なことなのだが、こういう制度ってちょっと楽しそうじゃないか、ということだ。

多くの人が、現時点では「夫婦というものは1人の男性と1人の女性によるものだ」という常識に凝り固まっている。しかしその常識を外してみて「もし複数の男性たちと複数の女性たちによる3人以上の結婚が可能になったら」と想像すると、それだけでちょっとワクワクしないだろうか?

例えば、音楽好きが4人が集まって、バンドを組んで、ついでに夫婦になってしまう、というのはどうだろう? 「バンド婚」である。実に楽しそうではないか!

また「いろんなタイプの結婚があってよい」ということが常識になれば、例えば、LGBTではなくても、「夫夫」や「妻妻」の夫婦があってもよいと考えられるようになるだろう。なぜなら、先ほども例示したように、もし「2夫1妻」のタイプの夫婦のうち妻が夫たちよりも早くに亡くなったとしたら、この2人の夫たちは、ゲイではないとしても、成り行き上、婚姻関係を継続してゆくことになるだろう。そして「そういうタイプの結婚もアリだ」ということになれば、性的な指向と関わりなく「夫夫」や「妻妻」の夫婦があってもよいということになり、そして次第にそれが常識だということになっていくものと思われる。

◆欠点は何か?

以上、一応「多夫多妻制」を積極的に推進する立場からその利点をいろいろ挙げてきたが、逆にこの制度に欠点はないのだろうか?

まず、思いつくのは、人数制限をどうするかという問題だ。むろん、常識的に考えれば、多夫多妻制を認めるとしても、多く場合その人数は4人とか6人とか適当なところでおさまるだろう、と考えられる。しかし、法制度というものは作られたが最後、一人歩きを始めるし、またその制度を悪用する者も出てくるのが常である。例えば、100人くらいの夫婦になりたいという人たちが現れたら、これを認めてよいか、という問題が発生するかもしれない。

先ほど、結婚は契約だが、それは組合契約に似ているのではないか、と述べた。そして、組合契約の場合、ある人がその組合に入るためには、すでにその組合に入っている人たち全員の同意を得る必要がある。

つまり、夫A、妻Bの夫婦が新たに妻Cを迎え入れる場合は、夫Aが同意するだけでなく、妻Bも同意する必要がある。こうして、夫A、妻B、妻Cの夫婦が誕生した後、さらに妻Dを迎え入れようと思ったら、ABCの全員がそれに同意しなければならない。さらに、夫Eを迎え入れる場合、ABCDの全員が同意する必要がある。つまり、契約である以上、新規加入者は、既存の当事者全員と合意する必要があり、それゆえに、人数が増えるほど、全員の合意はとりにくくなり、加入は難しくなるのだ。

こういう理由によって、組合契約は、人数が増えれば増えるほど新規加入が難しく、基本的には大所帯にはなり得ない、と言われる。しかし、世の中にはいろいろ悪知恵を使う人もいるのだ。

そういうことを考えると、せいぜい「10人まで」というような人数制限を設けておく必要があるのかもしれない。

◆離婚は増えるだろうか?

それから、離婚が増えるかもしれないということは懸念される。2人であってすら「性格の不一致」という問題があるのだから、いわんや人数が増えれば増えるだけ「他のメンバーと反りが合わない」という場面は飛躍的に多くなるだろう。

また「バンド婚」をしたものの、音楽性の違いで離婚ということも起こるかもしれない。

離婚になった場合には、子どもの問題はどうするか、という問題は不可避的に伴うものである。ただ、こういう問題は、どんな結婚制度の下でも生ずるものであり、現時点でも存在する問題である。

確かに、多夫多妻制のほうが一夫一婦の場合よりも相対的に「離婚」(あるいは、解散、脱退、除名と表現したほうが適切な場合もあるかもしれない)が増えたとしても、そのような場合を解決する方法は必ず存在する。だから、これ自体は「多夫多妻制」を許容しないことの決定的な理由とはならないと思われる。

◆だが、やはり不評だった

このように「多夫多妻制」は、結構利点が多く、欠点が少ないように、私は思う。

それに何度も繰り返すが、この制度は、必ず「多夫多妻」でなければならないという制度ではなく、従来どおりの「一夫一婦」を貫きたい人は、夫婦で話し合ってそうすればいいだけのことなのだ。つまり、重要な点は、この制度は万人に「多夫多妻」を強要するものではなく、「多様な結婚のカタチを認める」という方向のものであり、「結婚における人々の選択の自由を促進するにすぎない」という点なのである。

このように私は「多夫多妻制」こそが21世紀の結婚制度として相応しいと信じていたから、先日、行きつけのBARで、この話題をぶち上げてみた。

ところが、たまたまその場に居合わせた常連客の女性(30代独身)に、この制度は、極めて不評だったのである。いろいろと厳しい反論をされた。

ただ、率直に言えば、その反論は、論理的なところはほとんどなく、多くは感情的な反発だったと言える。だが、なにせその勢いが凄まじく、私自身はこの提案に対してそんな強い反発を食らうとは思っていなかったから、正直たじろいだのだった。

だが、実は、この点が重要なことなのだが、この「感情的な反発を受ける」ということこそが、法制度にとっては、最も重大な問題点だとも思うのだ。

例えば、共産主義や社会主義が歴史上失敗に終わったのはなぜかと言えば、人の感情や欲望といったものに根ざしていなかったからだろう、と私は思う。つまり、人間は怠惰な存在で、働いても働かなくても給料が同じならばみんな働かなくなってしまう。それが、人間の本性に根ざした当然の帰結なのだ。つまり、信念や理想といったきれい事ではカラダは動かない、ということだ。そして、そういう感情や欲望を制度設計上考慮していない法制度は、必ず失敗する、と私は思っている。

そういう意味では、この「多夫多妻制」という制度は、そういう根本的な部分を欠いているのかもしれない。

では、その根本的な部分とは何か?

結論的に言えば、それは「ロマンチックではない」ということだ。

多くの人が、もしかすると「結婚」という法制度を「恋愛のゴール」と位置づけているのかもしれず、そこに何らかの「ロマン」を求めているのかもしれない。そして、そこにこそ、この「多夫多妻制」がこれだけの激しい感情的な拒否反応を受ける理由があるのかもしれない、と私は理解した。つまり、それがまさに「ロマンをぶち壊しにする」ものだ、ということだ。

◆これは思考実験である

ただ、それでも私が理解してほしいのは、この「多夫多妻」という制度が、人々に「多夫多妻」を押しつけるものではない、ということである。単に、夫や妻が複数であってもよい、という自由を「それを望む人たちに」許容するものにすぎないのであって、決してそれを全員に強要するものではない、ということである。

そして、ここまで言えば、ある人たちは気づかれたかもしれないが、これは1つの思考実験でもある。

つまり「多夫多妻」は、あるいは馬鹿げた制度かもしれないが、「私たちは一夫一婦がよい」と言っている人たちの自由を何ら狭めるものではないのである。この点だけは間違いない。

そして翻って考えると、現在の「選択的夫婦別姓」や「同性婚」を採用すべきかという議論も、構造的にはまったく同じなのである。

「選択的夫婦別姓」は、同姓にしたいという人に対して別姓を強要するものではない。別姓がいいと言っている人たちに対して別姓を許容する、というだけのものだ。

「同性婚」にしてもそうだ。同性婚をしろと言っているわけではない。異性婚がよい人は、従来のままでいい。ただ「同性と結婚したい」という人に対して、その自由を許容するだけのものなのだ。

だから、選択的夫婦別姓や、同性婚を認めよ、と主張する人たちは、これらを否定する人たちに対して「これらの制度は、別にあなたたちに対して、別姓や同性婚を強いる制度ではない。これらを望む人たちにその自由を許容する制度にすぎない。だから、あなたたちは、これらを認めることによって何ら不利益も迷惑も受けない。それなのになぜ反対するのか?」と批判する。しかし、この批判は「多夫多妻制」に反対する人たちに対しても、等しく妥当するのである。

つまり、この点からすると「選択的夫婦別姓」の採用も、「同性婚」の採用も、「多夫多妻制」の採用も、構造的には、まったく異ならないのである。

◆結びとして

私自身の、個人的な夫婦生活に照らしてみたときに「もう1人妻がほしいか」とかと問われれば、そんなことは思わない。「もう1人夫がいたらどうか」などと問われれば、そんなことはまったく考えたこともない、と答えざるを得ない。

ただ、個人的な夫婦生活はともかく「多夫多妻制」という制度について言えば、私は、この制度の採用に非常に前向きである。自分自身がどういう結婚生活を送るかということと、国家としてどういう結婚制度を用意すべきか、ということは、別問題だからだ。

私は、基本的に「自分に直接的な迷惑がかかっているわけではないのに、他人の自由を必要以上に制限すべきでない」と考えている。だから、多夫多妻制でもいいんじゃないかな、と本気で思っているのである。

昔ながらの結婚にロマンを感じるのであれば、それはそれでよい。最近では「シンデレラ・ストーリー」は批判されているみたいだが、そういうのが好きであればそれでよい、と思う。

そして、それがキライならそれもまた結構。

そして、だれもが、自分の好みやロマンや美意識を他人に押しつけるべきではなく、他人の好みやロマンや美意識を「それが存在してもよい」という意味で、受け入れ、尊重すべきであると思う。そして、このこと自体は、好みやロマンや美意識のレベルの問題ではなく、憲法が要求していることだ、と思っている。

まあ、現時点でだれもそれを望んでいないのなら「多夫多妻制」の採用の当否を検討するのは、それを現実的に求める人が現れてからでもいいだろう、とは思う。

だが「選択的夫婦別姓」や「同性婚」は違う。それを求めている人が現実にいるのだ。だから、とっとと実現すべきなのである。それを採用したところでだれの迷惑にもならないのだから。

私に言わせれば「さいきょうのけっこんせいど」には程遠いが、それでも、現在よりはずっとマシな結婚制度になることだろう。


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