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エッセイ たまらなくキミを愛してる(#うちの卵かけごはん)

 たまに卵かけごはんで夕食をとる。立派な食事を作るほどの体力はなく、かつ栄養は摂りたいという日に多い。今日のごはんは炊き立てだぞ、という日にもたまにやる。張り切ってお味噌汁なんかも作ったりして。ご馳走に頬が緩む。要するに好物なんだろう。

 私の卵かけごはんは「かき混ぜないで食べる」式である。白米の上に生卵を割り、しょうゆをかけてかるく崩しながら食べる。かける前もかけた後もかき混ぜたりはしない。黄身、白身、しょうゆ、それにごはんが独立しているので、それぞれの味が混ざったり混ざらなかったりする。そこがいい。

 実家でも朝食によく卵かけごはんが出たが、うちは「事前によくかき混ぜる」式だった。とりわけ、自分は念入りに混ぜた。生の白身が苦手だったからだ。今でも少し苦手かもしれない。卵かけごはんが白身だけで出てきたらがっかりする。目玉焼きやゆで卵の白身は好きなのだけど。

 中学生になった頃、「ごはんにかけてからかき混ぜる」方法を発見した。均一に混ぜるなら、この方が効率がいい。ごはんが一緒に卵を混ぜるので、(行儀が悪い、と怒られなければ)手軽にふわふわになる。しかも卵の入っていた小鉢が汚れない。洗い物も少なくても済む。朝食に卵が出るたびに得意だったのを思い出す。

 一貫した「かき混ぜる」派の私が「かき混ぜないで食べる」に鞍替えしたのは社会人になって一人暮らしを始めて後だ。確か何かのエッセイだっと思うが、「生卵をかき混ぜないで卵かけごはんにする」という選択肢があることを、私は活字で初めて知った。今まで「卵かけごはん=混ぜる」ものだと思い込んでいた。そうか。混ぜないでもいいんだ。

「そんな、ぐちゃぐちゃに混ぜて、汚らしい」
確かそのエッセイに出てきた「かき混ぜないで食べる」派の人はそのような発言をしていた。私は反発した。お前だって生の白身をかき混ぜもせずズルズル食べる気じゃないか。汚らしいのはどちらだ。

 読んですぐ、私は米を炊き、生卵を割って「かき混ぜないで食べる」を試した。食べもしないで反発するのはフェアではない気がするし、口に合わなかったら混ぜてしまえばいいのである。中学生時代の発見のおかげで、生卵をごはんにそのまま落とすことに抵抗はない。口に合わなければ混ぜてしまえばいいのである。しかも、すぐにふわふわになる。

 透明な白身に垂れるしょうゆの黒に一抹の不安を覚えながら一口。私は思った。「あ。いける」
 そう。おいしかった。意外にも白身のどろりは気にならない。しょうゆのガツンとした旨味もいいアクセントだ。そして何より、黄身の味が濃い。

 考えてみれば当たり前だ。「混ぜる」式の卵かけごはんは、白身が混ざるのと同時に黄身も混ざっているわけで、一口あたりの黄身は全体に分散して薄くなっているのである。

 成程。
 私は納得した。思えば生の黄身をダイレクトに口に運ぶ機会なんかなかった。かき混ぜる式の卵かけごはんを始め、すき焼き、とろろ、今では食べられないの生ユッケに至るまで、徹底的に混ぜに混ぜる人生だった。こんな贅沢、いや材料費は変わっていないのだけど、こんな贅沢してもいいんだ。それ以来、私は卵かけごはんをかき混ぜないで食べる。要するに、黄身が好きなのだ。

 あつあつのごはんをお茶碗に盛って、生卵を割り入れ、しょうゆをたらり。箸で中央を割ってとろりと流れた濃厚な黄身を味わう。こんな嬉しいことがあろうか。今も昔も変わらない。たまらなくキミを愛しているよ。

エッセイ No.78

#うちの卵かけごはん

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