落ちてるものを拾うー『万引き家族』と是枝映画における〈家族〉という主題

 是枝裕和監督の映画『万引き家族』(2018年)は、カンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得するなど、日本の貧困問題を扱った作品として、世界的な評価を得た作品である。親の死亡届けを出さずに年金を受給していた実際の事件を元に作られたこの映画において、祖母・初枝、夫・治、妻・信代、信代の妹・亜紀、長男・祥太という5人の家族は、治の日雇い労働、信代のクリーニング店の仕事、初代の年金で生活しているが、それで足りない分は万引きによって補う生活しており、リリー・フランキーが演じる治は、子どもたちに万引きの共犯をさせている。しかし、「万引き」とは、この家族の成り立ちそのものでもある。一見、普通の家族に見える一家は、実はそれぞれ複雑な事情を経て寄り集まっていた疑似家族であり、他の家族から、いわば家族を「万引き」することによって、作られていったことが明らかになる。この疑似家族には、やがて家族に育児放棄されている小さな女の子・りんも加わる。

 なぜこのようなことをしたのか。事件が発覚した後で、治は、「捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです」と言う。是枝は、『誰も知らない』(2004年)という映画を作っているが、これは1988年に発生した、巣鴨子供置き去り事件を題材とし、それぞれ父親が異なる子ども四人の母子家庭において、YOUが演じる恋多き自由な母親が失踪した後で、中学生の長男が一人で幼い弟妹たちの面倒を見るという内容であり、親に捨てられた子どもの姿を描いている。『万引き家族』は、『誰も知らない』への応答として「捨てられた子どもを拾う男」の話になっている。

 なぜ家族を増やそうとするのか。『万引き家族』では、『スイミー』の話が繰り返し出てくるが、小さな魚が集まって大きな魚を擬態するスイミーの挿話は、無力な個人が集まって家族を擬態することで、大きな敵を追い払う力を持つのだ、ということを表わしている。もともと『スイミー』の作者レオ・レオーニはユダヤ人の裕福な家庭に生まれ、第二次世界大戦時にイタリアから亡命した人物であり、『スイミー』の物語は、「大きな魚=ファシスト政権/小さな魚=ユダヤ人」と見立てることができる。働いても生活が成り立たない貧困状況において、「誰も知らない」、不可視化された「棄民」が寄り集まることによって、社会において「大きな魚=家族」に擬態することによって、かろうじて生存が可能になるありようが語られている。初枝の死後における年金不正受給もまた生存のために必要な、そうした「擬態」の一つであろう。

 是枝のフィルモグラフィーにおいて、「捨てられた子どもを拾う」話といえば、『海街diary』(2015年)も、実は同じである。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆が演じる三姉妹の父は、優しいがゆえに女性とどうにかなってしまう男であり、母と離婚して家を出て、他の女性との間に子どもを作り、さらに別の女性と結婚した後に、亡くなってしまう。姉妹は、葬儀のために訪れた父の再婚相手の家で、父の連れ子として居場所を失っていた少女(広瀬すず)に声をかけ、家に引き取ることにする。居場所を失っていた四女を、「万引き」することで、家族の一員に加える点で、『万引き家族』と同じモチーフを扱っていると言える。一方で、看護師を勤める長女は妻帯者の医師と不倫関係にあり、やはり他の家族から家族を「万引き」しようとしてもいる(この関係は切断される)。

 『そして父になる』(2013年)は、チェンジリング(取り換え子)を主題としている。この映画もまた実際に起きた事件を題材とし、原作は、奥野修司『ねじれた絆ー赤ちゃん取り違え事件の十七年』(文春文庫)である。福山雅治演じる主人公は、エリートであるがゆえに、能力で子どもを見る毒親だったのが、子どもが病院のミスで他の夫婦の赤ちゃんとの取り違えられた「取り換え子」であったことが判明し、協議の末、血の繋がった家族の下に戻していく方向で、子どもを交換して互いの家に宿泊させることから始めていく。取り違えた相手の家族は、群馬の家電店の家族であり、夫の男の役はリリー・フランキーが演じている。主人公はやがて子どもを二人とも引き取りたいと申し出るが、これは相手側にも自分の妻にも反発される。ここでも家族を「万引き」するモチーフが見い出されるが、『万引き家族』では家族を「万引き」する側だったリリー・フランキーが、ここでは「万引き」されそうになる側を演じているわけだ。

 この映画で主人公に見えておらず、やがて気づくことになるのは、子どもの気持ちだ。子どもを血の繋がる家族に戻す提案を受けたとき、主人公は戸惑うが、関係者に、「子どもは意外と慣れます。早ければ早いほど早く慣れる」と言われる。そこでは子どもの気持ちが無視されているが、しかし、もともと主人公自身が、自分の思い通りに優秀さを持たない子どもに不満を抱く、子どもの気持ちを無視した「毒親」であった。しかし、子どもが父の日のプレゼントを両家の父の二人分を用意していたことから、主人公は子どもの気持ちに気づき、子どもに向き合うようになっていく。子どもの視点に立てば、もともと父の期待に応えられない自分は「捨てられる」かもしれないという、「見捨てられ不安」を抱いていたはずで、「取り替え子」事件によって他家にやられたことは、不安の現実化にほかならない。しかし、この事態を契機として主人公は自分の父としてのありように気づき、それを見直していくのだ。

 家庭内において親に子どもが見捨てられる「毒親」の問題については、是枝のフィルモグラフィーでは、『歩いても 歩いても』(2008年)において描かれている。阿部寛が演じる絵画修復師の男、良多は、子持ちの女性と結婚し家族を持っているが、現状は無職の状態であることを隠して、嫌々帰省する。良太は、15年前に亡くなった兄と自分を常に比較し、何かと自分を貶める両親にうんざりしているからだ。実家の両親は、原田芳雄が演じる元医師の父はいかにも頑固で古臭く、凝り固まった分からず屋であるが、樹木希林が演じる母もまた、一見、父を諫める役回りで人当たりがよいが、実のところ父以上にたちが悪く、良太が子持ちの女性と結婚したことにも口を出し、妻との間に子どもを作ることについて、「子どもができたら別れにくくなる」と良太に言い、さらに良太の妻に対しても直接、「赤ちゃんができてあつし君(連れ子の名前)とギクシャクしちゃいけないから産まない方がいい」と否定的な意見を言って干渉する。

 母は、良太の兄が自分の命の代わりに救った子どもを毎年命日に家に来させているのだが、彼はフリーターであり、命を救ってもらったにもかかわらず、不甲斐ない現状に申し訳なさそうにしている。もう解放してあげた方がいいのに母が来させているのは、復讐のためである。命を救ってもらった子どもがダメになってしまっているのは、この母の呪いのためである。この母は、実は極めて強い支配力や暴力性を持っているのだ。良太はおそらくこの両親にずっと抑圧されてきたために、両親は今後も変わらないであろうことを悟って、諦めの境地に達しており、親の言うことは適当に受け流す、という親との付き合い方を学んでいる。したがって、母に子どもを作ることについて干渉を受け、夫婦ともに嫌な思いをすると、良太は、帰り道には「ほら、来ない方がよかった」と親の変わらなさを確認し、数年後を映し出すラストシーンにおいては、既に両親は亡くなり、母の意見をスルーして、子どもを作っている様子が描写される。両親は先に死んでいくのだし、親は変わらないもので、この期に及んで親の言うことを聞く必要などなく、自分の思い通りにやればよい。良太は、毒親から解放されたのだ。

 良太の家族もまた『万引き家族』や『海街diary』の家族と同様、夫婦と、妻の連れ子と、自分と妻の間に産まれた子の四人家族という、「普通」とは少しかたちが違うかもしれない構成の、意志的に「作られた」家族だ。『海街diary』の三姉妹(とりわけ長女)もまた父に捨てられ、しかし、異母妹の四女を引き入れることで、自分の家族を作ろうとする。『万引き家族』における夫婦も同様だろう。是枝の家族を主題としたフィルモグラフィーは、「家族に捨てられた者が家族を作ろうとする」というモチーフに貫かれているのだ。

 ただし、『海よりまだ深く』(2016年)では、阿部寛が演じるダメ男が、樹木希林が演じる母、小林聡美が演じる姉、真木よう子が演じる元妻など、しっかりした周りの女性たちに甘やかされ、いつまでも自立できない、「父になれない」男の姿が描かれる。父性が困難なものとなった時代において、家族になり、父になることは簡単なことではない。

 では、『万引き家族』において、はたして治は父になれたのだろうか。結論からいえば、それは「なれなかった」ということになるが、それは治が「自分には万引きしか教えるものがない」というような理由ではなく、翔太が補導された際、翔太を見捨てて、自分たちだけ逃げようとしたためだ。この家族は血の繋がりがないけれど、どこかで繋がっているようで、しかし、やはりお互いに利用し合っている関係に過ぎなくて、自分に都合が悪くなれば、大きな魚に見せかけていた、小さな魚の集まりがちりぢりに逃げ出してしまうように、平気で「捨て」てしまう。結局は本当の家族ではないのだ。

 『万引き家族』が痛ましいのは、「捨てられたものを拾うこと」で作り上げられた家族において、さらにその家族から「捨てる/捨てられる」という問題が生じてくることである。そして、一度捨てられた者たちだからこそ、二度目の「捨てられる」かもしれないという不安に常に怯えており、「捨てられる」痛みに対して鋭敏な感覚を持つ。最後に治が翔太と再会し、バスに乗って帰っていく翔太を、治が追いかけ、そんな治を翔太が見るシーンは、やはり治に「捨てられた」翔太が、今度は逆に、治を「捨てる」シーンであるように見える。しかし、それを責めることはできない。最初に捨てたのは治の方だからだ。

 以上、『万引き家族』によって明示された「家族を「万引き」すること」から、是枝の家族映画のフィルモグラフィーにおける「捨てる/拾う」主題の反復を抽出し、「捨てられたもの」が「捨てられたもの」を「拾う」ことによって家族を作り上げるが、彼らもまた「捨て」てしまい、家族を作ることができない、という様態が見い出されることを検討してきた。『歩いても 歩いても』において、どんなに嫌でも血縁で結ばれている家族と比較すれば、やはり「拾われた者」の共同体としての家族の繋がりは、弱く脆いように思われる。しかし、「捨てられた者」たちは「拾う」ことによって、家族、そして自分居場所としてのコミュニティーを作り上げていくのでなければ、一人で生きて死んでいくほかない。「捨てられた」ものを「拾う」ことは、国家に捨てられた「棄民」に可能な、わずかな抵抗の方途にほかならない。


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