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佳奈という人(の、素描)

【あわせて読みたい:これは短篇『大人の領分④佳奈』の付録です。なにやら複雑な事情を感じさせるこの人に、さまざまな角度から光をあてるこころみ。欲望まみれにしか見えないけど欲のない静かな生活、罠を張ってもいないのにホイホイかかります、普通の感覚で接すると困惑させられます、結局彰さんしかいなかったようです、こっちの水は甘いよ、大人な佳奈の、こどもの国。ほか】

佳奈は小規模設計事務所で電話番やら書類作成整理やらをしている女性です。設計事務所の事務の傍ら、というのも電話はあまり鳴りませんし、実際のところ優秀で書類や調べ物はすぐにできますし、先生は外まわりばかりですので、事務所に置いてある先生の蔵書を読んだり、趣味でエッチな海外サイトのまとめ記事を作成して投稿したりしています。36歳。旦那さんの彰さんはワンダーフォーゲル系売れっ子総務で、現在は大手食品メーカー在籍、お仕事大好き、同じ大学出身、21からずっと付き合って27で結婚した同い年、一昨年、佳奈と二人で10年育てた投資利益を頭金に、豊洲の新築分譲タワーマンションの中層階を特別死亡約款つき・自分名義で購入し、ゆるキャリ気味の佳奈とローンを返しながら静かに暮らす毎日に、静かな幸せを見出している、静かな性格の男性です。

佳奈は修士課程修了後すぐに、最大手とまではいかないまでもまあまあの大きさのSIer企業に、ソリューション部付き総合職として入ってみたんですが、これがどうにも、今でこそ業界全体が白っぽくなってきたとはいえ当時は限りなくブラックに近いウルトラダーク企業だったうえ体育会系で、直属の上司は寝言か綺麗事しか言わず、文系プロパーはギラギラした顔つきの、数字に弱い俺様野郎ばっかりでした。数字にも強いのに、ああ、文学系という厄災、数字に興味がなく、スプレッドシートの結果行しか見ない単細胞には想像もつかない部分でしか成果を出せなかった佳奈も悪いは悪いんですが、とにかく居心地が悪かった。彰とはその頃まだ同棲関係でした。彰はリスクヘッジとして佳奈には働いていてほしいけど、院生時代同様、だいたいの夜は家にいて、好きな本でも読みながら食卓の前で自分の帰りを待ち、にこやかにおかえりなさいと言っていてほしかったんですね。佳奈が好きな仕事を一生懸命しているならともかく、ノリで入った興味もない業界での半強制的労働で中途半端に上昇し、自分より帰りが遅いとか休日出勤があるとか、晩御飯を作ってあげないといけない日があるとかは本末転倒、勘弁してほしかった。さすがに転職だなぁという社会人2年め、彰は佳奈に指輪のカタログとともに、佳奈はひとりで生きているわけではなく、自分は佳奈の幸せを願っているのであって、エリート路線を目指さなかったり、仕事で自己実現をしようとしない人生もあると提案。佳奈はもともと人文系大学院に趣味で残っていたような人ですから、2日間、自分の幸せについて考えた末、事務系への転職を決め、その後、彰の社会的な地位と賃金の上昇とともに、無理なく働ける近所の小さな会社に移ること2回め、最寄りハブ駅から2駅・通勤片道30分、今の設計事務所に5年前に落ち着きました。なんだかんだ、系列相談所事務の一部引取なんかもしてまして、また、事務所の書類の量や小難しさというのもそれなりなのであって、お留守番が佳奈一人しかいないことを鑑みるに、余裕をかましているようで仕事は見た目よりずっとあり、つまりお給料もそこそこにあります。

佳奈は現在、仕事帰りによく寄るカフェでバリスタをしているユキと関係があるように、設計事務所の先生とも関係がありますし、設計事務所にバイトに来ている学生さんのうちの1人とも関係がありますし、週1で通っている英会話スクールの同じクラスの会社員男性とも関係がありますが、関係があるだけで、関係は深くありません。関係が深いのは、毎晩佳奈と手を繋いで一緒に眠り、朝起きると身支度を終えてコーヒーを飲みながら新聞を読んで佳奈を待っていて、いってらっしゃいのキスを頰に受けて出勤していく、彰さんだけです。ここら辺で申しおきますと、佳奈の容姿は中の上の上の上。ナンパの人は無駄足を避けてせいぜい軽く声をかけるくらい、一般の人は憧れるレベルながら、どことなく普通感があり、しかも常にそこはかとなく男の影があるため、征服欲と挑戦心をかきたてられた結果、まあこのレベルならダメでも仕方ないと諦めはつく、しかしこの感じならいけるかもしれない、と多くの一般男性がダメ元で恋愛を仕掛け、佳奈は佳奈でそこそこ選びはしますが、せっかく来たからには拒まない面があり、つまりこうして、佳奈は常にそこはかとなく男の影がある人になっているわけなのですね。なるほど奥が深いスパイラルです。

佳奈はインテリなので、一見さんは基本、お断り。常時、一定数の「定期的に顔を合わせる、メンバーがあまり変わらないコミュニティ」を持ってまして、そのコミュニティにおいての基礎採点後、佳奈式加重得点フィルターをかけてから出された総合点の高い男性が、しかも佳奈と懇ろになりたい場合、その男性と懇ろになり、別れるとおおかたの場合はどちらかがコミュニティから撤退します。佳奈がこの方法をマスターしたのは学生時代。なるべくメンバーが被らないようクラスを取り、懇ろになった男子学生には、一応付き合ってる人がいるから、目に見えるところではベタベタしたくないと言う。この頃のコミュニティとしては他に免許合宿先、バイト先、インターン先、料理教室、サークル見学先などがありました。参考までに、学生時代の佳奈の、男性宅お邪魔しますの頻度はマックス月5人です。現在関係がある人を含めた全経験人数中、学部生時代の人のうち15人弱は当時学生、さらにその学生のうち10人前後は同じ大学かつ同じか前後の学年だった男子でして、ナツメくんはこの10人前後の男子学生のなかの1人ですね。ところで、社会人になってからもなお、5人以上が同じ大学卒業かつ年齢差3歳以内の男性です。

佳:同い年の人のいいところって、過去現在未来の感覚が似てるとこだと思ってる。自分探しした時期や、自己愛の性格にも、なんとなく時代性ってあるでしょう。だからいなくなってもなんだか、一緒に生きてるような気がするの。

なるほど。ちなみに、お相手の年齢の最大最小値、お聞きしていいですか。

佳:嫌。下品。

すみません。では、学歴大事にしてそうな点については。

佳:それは結果論だよ。ただ…経験則としては、違う大学の人って、話すと説明いっぱいしなきゃいけないでしょ。だから疲れる。つまんない感想を、いいこと言ってやった!みたいな顔で言うでしょ。だから恥ずかしい。自分の話の矛盾に気づかないでしょ。だから聞くと理性が混乱する。思ってることと伝えたいことの区別ついてないでしょ。だから話の半分は結論のないただの内省で、聞いてるあいだ、暇。一緒にいてもドジとかポカが多いでしょ。なんだか間抜けで悲しくなる。私は苦しむために誰かといる趣味はないもん。もちろん、学歴で選んでるわけじゃないよ。

うおお、ぽやーっとしてるようで、ずいぶん苦労してるんですねえ。ちなみに、同じ大学出身の人と違う大学出身の人、どっちが多いか教えてもらえますか。

佳:え。気持ち悪い。なにそれ。

ですねー…すみません。ではこのあたりで、ユキの話を。

佳:ユキは特別。不思議と、ドジでもバカでもなんだか、可愛いんだ。好きだからかな。ううん、デートしないからだろうな。ユキは…違いすぎてむしろ、なに考えてるのかわかんないのが、謎めいてて新鮮っていうか…時々、素直で、善良すぎて、落ち葉のなかに宝石見つけたカラスみたいな気分になるし…いちばん特別な理由はね…ユキは私の声しか聞いてないから、何を言っても大丈夫で、何を言っても、言葉では、騙せない。なのに、自分で、気づいてることに気づいてないの。ユキといると、何にも考えないってこんなに見晴らしがいいんだって、ぞくぞくする。

いやはや、たしかに。これを「会話」の片方として成立させる状況というのを日常的に求めるとすれば、お相手を選ぶでしょうね。内容のほうについては…うーん。なんといいますか、案外、いい性格してるんですねぇ。

さて、大学2年以降実際に「一応付き合ってる人」、彰さんがいたことを考えると、特に学生時代にどうやってそんな性生活を送れていたのか謎に思われますが、たとえますと公園で遊具ごとに飽きるまで遊んで周り、ひと通り周ったらまた好きな遊具で飽きるまで遊ぶみたいなまわりかたをしてたので、毎日とっかえひっかえというわけではないですね。さっきの数字はあくまでマックス数であって、月で被ってるのは彰さんを除いて概ね2人までだったようです。それは今でもだいたいそう。設計事務所の先生とユキ、設計事務所の学生と英会話スクールの会社員、という組み合わせが、1か月おきに並んでます。

そうですよ。もちろんですとも。彰は佳奈の浮気性には交際開始当初から、大変、手を焼いてます。なぜ交際が続き結婚にまで至るのか、ここらへん強い疑問を抱かざるを得ないのですが、そこはそこ、彰はムードなんかの白々しさに耐えられず、精神的ななにかを与えたり受け取ったりするタイプではない、つまりあまりセックスが好きじゃないタイプの人なんですね。昔から、佳奈を性的に満足させられないだろう自分、というのを自覚していて、かつ、ここが彰らしいところで、そこで自分が無理をしたり、あるいは佳奈の人生から性生活を奪うのは、それはまたそれで違うと思いました。そんな頃合いのこと、彰は自分が性的に淡白というのが過分にあるにせよ、佳奈に男の影が差すたびに、なんとも言えないむかむかした気分になったりはしてまして、大学4年生のある時ついに、学校の物陰でかっこいいような感じの男子といちゃついている佳奈の姿を目撃して以来、佳奈に対して真っ当な性欲がついに、浮かんでこなくなってしまった。なのに…ここが彰には非常に苦しいところなんですが、性的に淡白な彰は、それ以外の部分では、佳奈のことをまるでもう一人の自分のように感じていて、とてもじゃないけど「それくらいのことで」、手放すことなどできなかった。佳奈が隣にいて、佳奈にしてみれば思った通りを口に出しているだけなんですが、構造化著しい複雑な独り言を言ったり、どうにもわかりにくい理由でけたけた笑っていたり、リベラルかつラテラルなゼロベースの意見を述べたりする生活というのは、同じような神経を持ち合わせている彰には欠かせないものでしたし、そんな佳奈がたまに、子どものように純真な表情で、繋いだ彰の手をそっと握り返す、そんな時間に大きな喜びを見出していたわけですね。これは佳奈も同様だった。佳奈は後ろめたさと自由の落とし所を探りながらも、他の男性には感じない、双子のような感性の類似というのを、人生でそれほど多くはない出会いとして認識していたのでした。彰は佳奈を繋ぎとめておくために、月1回、なんとかセックスはしてましたが、これはあくまで、佳奈の彼氏としての地位のため。彰のレス気味で薄いセックスに不安になって一層、男の影が濃くなる佳奈と、佳奈に差す男の影に、不安になる彰…しかし、性的な面以外では、お互いうんといえばすん、ツーと言えばカー、阿吽の呼吸なわけですね。結婚は実は、二人の交際史上、いいタイミングで来まして、以来、二人は安心してセックスレスですが、不仲というわけではなく、月数回、お互いなんとなく詳しい話を避ける夜がある以外には、気の置けない、まるで割れたリンゴの片方ずつのような、静かで、穏やかで、幸せな結婚生活を送っています。彰はもう、気分は空母。建前としては、自分がいるから佳奈は安心して遊びに行けて、それはそれなりに佳奈の目先の幸せのためには有意義なことだと思ってる。どうしてここに落ち着いたのかについては、『対話篇』も真っ青の、二人の10年ぶんの空中舌戦を再録せねばなりませんので、割愛しましょうね。二人の会話を会話と呼ぶには、聞いている方の頭はスパイダーマンばりの速度と飛躍とを必要としまして、一応、一瞬は活字にしてみましたが、これは…お経か詩篇です…もう、これは掲載しなくていいな。うん。

というわけで、長年の難しい対話の末、佳奈が「おつかれさま、今日は外で食べて帰ります」とメールをすると彰は「了解 ごゆっくり」と返すという、はたからみると冷戦としか思えないようなやり取りを、お互いへの真摯な思い遣りと、安心感のある生活への感謝の気持ちからやっています。恐ろしい。余談ですが、ここ数年、佳奈の男が安定供給されているうえ変わってないらしいので、恋愛でそわそわする佳奈や、妙に欲求不満を醸し出してイライラする佳奈を見ずにすみ、彰は多少、落ち着いた気分でいます。人生って、難儀ですねぇ。

佳:あれ? 柏木くんは?

考えましたが、食う気でしょ。

佳:あの人、年上好きなの?

好きかもしれません。

佳:あのね…。私、基本的に自分から誘わない。食うってそんな、肉食獣みたいに。

そこなんですよ。誘わせる気でしょう。

佳:えー。そんな魔女みたいな人じゃないよ。言いがかり。

どうだかねー…。

佳:ふうん。まあ確かに、ここに来るときに見た感じだと、大した仲になるわけじゃなし、勇気を出して誘ってくれたらいいのになって思ったかも。かっこよくて、善い人、好き。

私はそれ、柏木くんに伝えませんからね…?

佳:何回か会ってれば言わなくても伝わると思うな。…そんなに会う機会ないから、ダメかな。残念。

ね。ほら本音。残念ですね。

佳奈との恋愛というのは…なんと言ったらいいものか、難しいのですが、その、明るく軽い感触に反して、薄寒い、暗いものです。佳奈は男性に、この柄杓で私の舟を沈めてみて、と言って、暗闇に煌々と光る柄杓を渡します。実は柄杓には底がないんですが、光の加減で気づきにくい。佳奈の乗る舟が岸を出る。男性は少しくらいならと足を踏み出します。はじめは浅瀬で、水も軽い。そのうちに水が深くなってくると、男性はあと少しくらいならと、片手を佳奈に引かれ、泳いで付いていく。もう一方の手、渡された柄杓で水を注ごうとするのですが、底がありませんから、当然、汲めもしなければ、注げもしない。男性は手元に集中するあまり、泳いできた距離の感覚が狂っています。あるとき、佳奈が手を離す。舟には笠で顔は見えませんが、男の漕ぎ手がいて、佳奈のほうは見ずに、淡々と舟を漕いでいる。ゆっくりと、しかし確実に舟が離れていきます。男性は舟に導かれるうちにいつのまにか、暗くて冷たい沖のただなかに来ていて、ぽつんと、なんの用途もない光る柄杓を握りしめて浮いている自分に気づき、途方に暮れたのち、やがて泳ぎ疲れて、溺れ、沈んでいきます。


大人な佳奈の、こどもの国。お腹が空くとイライラする。今年はアスレチック、いちご狩り、ビール工場見学に行きたい。神経衰弱が得意。メモ帳と文房具に目がない。お気に入りのデザインのオイルタイマー、を、色違いで3つ持っている。氷菓が好きで、特に好きなのはイタリアンジェラートと、雪見だいふく。セクシーな格好をすると落ち着かない。手帳にたくさん貼ってるマスキングテープ調のフレークシール。に、実は意味があるのは、秘密。考えごとを邪魔されるのが好きじゃないこと。納得いくまで何度も作ろうとする、ミルククラウン。ハンモックの購入を検討中で、彰には必要性について1分以内でプレゼンしろと言われており、むぅ。って思いつつも、真面目に有用性や市場価格を調べて備えていること。「ヒーローになりたい」ってかなり真剣に書いてある、ユキの小学校の卒アルの作文。を音読して、ユキをひゃーひゃー言わせたこと。履歴から先生の個人ブログを見つけ、時々更新されているのを知っているのを知られていないままカウンターをあげ、「こんな場所に毎日来るらしい奇特な人」として認識され、更新がまるでお手紙をもらっているようで、楽しいこと。英会話くんとバイトくんの名前が似ていて、面倒だから二人には「みやくん」という共通のあだ名をつけたこと。1日は、とても長くて、たくさんの考えごとが生まれて、忘れられない色々なことが起こって、少しずつ少しずつ色褪せながらも、毎日に重なっていくもの。なのに、あまりにも多くの人があまりにも普通に、忘れたことさえ忘れるような仕方で、なにもかもをすっかり忘れてゆくのを、不思議に思う気持ち。


本篇は、こちら:

ユキはここにいます:


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。