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第17夜 段葛ボレロ

 早朝、まだ通勤客も少ない段葛に最初に醤油卵焼きのような香りがロールケーキ屋のほうからたちのぼる。次に動き出すのはモーニングサービスのあるカフェだ。雨でなければ、通り側の折れ戸を全開にし、外に席を出す。犬の散歩がてらここを目指してきた人が、いい場所を陣取る。続いてはドラッグストア。特売品のワゴンを店先に運ぶ。駅へ向かう人たちにアピールするよう、雨予想の日はビニール傘、花粉の飛びそうな日はマスクや目薬なんかが前面に出される。通勤客が落ち着いたころドラッグストアの並びのうなぎ屋がその日の炭をおこすために店の前の広い歩道で一斗缶に火を入れる。炭の臭いが立ち昇り行きかう人がちらりとその火をのぞいていく。あとは老舗の酒屋、点在する鎌倉彫店、土産物店が後に続く。やがてお昼に近づくと飲食店は営業中の札を出し、すべての商店が動き出す。
 段葛は頼朝が政子の安産を祈願して作らせた。鶴岡八幡宮へ向かう際により長く見えるよう道幅を先に向かって細くした。パースペクティブのほかにも、山頂に白布を張って雪に見立てたり、頼朝は錯覚の喜びを知っていた。数年前、段葛の桜はこれまでの横に枝を張っていた老木から、縦に枝を伸ばした若木へすべて取り換えられた。縦への視線が伸びたことでより遠近感が強調されたように見える。
 明日に希望をもって生きることは大事だが、現実に向き合うだけでは行き詰まり希望を失うことがある。夢を持つ。それは現実から一歩先に向かうこと。現実より一歩先に目を向けることである。夢を描く。それはまだ見ぬ世界に思いを馳せ、新たな世界を創出することである。現実から目を背けるのではなく、時には錯覚しながら視線そして意識を先々に向けるのである。
 老舗たちは伝統と革新を振り子のように行き来し、飽きられることなく長い間そこで愛され続けてきた。スーパー歌舞伎もカラー鉄瓶もカリフォルニアロールもネオ茶室も、今にこだわらずに先々を見てきたのだ。段葛にはお店の数だけ様々な思いが連なっている。今日もひとつづつ各店舗の息吹が生まれ重なり、すべてがシンクロするときそこには誰もが心惹かれるうねりが生まれるのだ。それはまさにボレロのコーダとなり余韻のまま一日を終える。そのこだまは八幡宮の大階段へ向け暗く狭まりながら、赤い宮を抜け森へと融けていく。

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