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シリーズ ケアと読書 本田由紀著『教育は何を評価してきたのか』中編

生きづらさは何故感じるのか。それはどこから来るのか。社会とも関係があるのか。

ここでは、対話コミュニティ「helpwell」の運営に携わる私こだまっちが、ケア、対話、福祉、教育といった要素と社会を繋ぐ本について感想を書いていきます。本記事は中編で、前編は以下のリンクからお読みください。

シリーズ ケアと読書 本田由紀著『教育は何を評価してきたのか』前編|helpwell [公式] (note.com)

本記事では、本田由紀著『教育は何を評価してきたのか』の中から、「日本の学生は能力が高いのに生きづらく、経済社会も活性化しない」原因を探るべく、日本の教育制度やそれに関わる言説の歴史に触れていきます。


(1)戦前の教育~言葉の使い方に触れながら~

①五つの言葉と能力による序列化

本田氏は戦前の教育を、「垂直的序列化」「水平的画一化」という言葉と、画一化に関連して使われてきた「態度」「資質」という言葉から振り返っていきます。

「垂直的序列化」は官僚への登竜門たる帝国大学を頂点に、高等教育から初等教育まで学歴ごとに地位が序列化されたことを指します。

しかし1872年の学制公布からしばらくは、実業系、師範学校等、目指す職域ごとに多様化された進路があり、農家でも「百姓の跡継ぎがいなくなるから進学しないでくれ」という事があったといいます。
以上のことから学歴第一で社会の序列が強化されるのが抑制されていました。

ただし、徐々に官僚(もしくは大企業)をゴールとする進路熱、学歴熱が高まって行き、実業系の学校を格下に見る風潮が現れたそうです。

また、前編で触れた「能力主義」に関連して、「人間の持って生まれた能力は決まっているのだから、それに応じた教育水準に満足しなければならず、低位の能力者が、無理に上の教育水準を目指すと却って不幸を招く」旨の意見を、著名な学者や官僚が述べていた例が紹介されています。

②画一化において求められた「態度」「資質」とは何か?

「水平的画一化」は国民等の集団に一定の「望ましいこと」を教え込むことを指します。1890年に出された「教育勅語」は画一化の一つの形と言え、建国神話、西洋近代の思想、儒教をごった煮しながら、国家にとって有用な人材に相応しい振舞いを教える内容となっています。
「教育勅語」は植民地でも強く推し進められました。

「態度」「資質」という言葉はよく使われますが、画一化と結びつける形で戦前における言葉の使われ方が分析されることで、ある傾向が発見されるといいます。

「態度」は最初のうちは身体的なものとして捉えられていたのが、戦時期が近づくと、心など内面的な在り方を論じる傾向が顕著になります。また「資質」は「公民の資質」「勤労者の資質」等、具体的な対象の「資質」について論じていたのが、戦時期が近づくと、「国民の資質」を論じるものが中心になったといいます。

ここまで戦前における学歴による序列化の始まりと、「能力主義」の話、そして「教育勅語」と、国家による人間の内面管理の強化を取り上げてきましたが、これらは戦後、どうなったのでしょうか。

(2)戦後の教育~「序列化」「能力主義」の推進と「画一化」の復活へ~

①「能力主義」再び登場

戦争に負け、焼け跡からの再出発となった戦後。戦前と戦中の大日本帝国憲法に代わった日本国憲法には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という条文があります。

これは日本国憲法の叩き台だったGHQ案には無かったもので、「能力に応じて」に対しては、多様な解釈がされてきました。

しかし憲法学者の佐藤達夫が、政府の憲法草案起草の策定に参加した際「自由放任を防ぎたい」「成績が悪くて入試に落ちた人間が教育の権利を主張するのを防ぎたい」と主張し、後にも、「教育を受けるに必要な能力(学力・健康など)によって差別されるのは当然である」と主張したといいます。
以上の背景から、「能力に応じて」を入れたのだろうと本田氏は書いています。

1947年制定の教育基本法にも「能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」という表現が入れられます。

②高校全入の理想と「能力」のねじれの始まり

戦後は戦前とは異なり、学区内の高校に、学区内の希望者全員が入れるのが理想とされました。しかし敗戦後の社会経済状況ではそれが困難で、入学試験による選抜が実施されました。「希望者全員が高校に入れるべき」という理想は後の「高校全入運動」に繋がっていきます。
(それが皮肉にも学歴社会形成を促進することについては後述します)

1950~1960年代にかけて、経済団体より、多様な職種に繋がるような職業科の高校を増設するよう何度も要望が出され、職業的専門と繋がるような「能力主義の徹底」が強調されます。

しかし経済団体の要望は、人間を能力だけで測るものとされ、教育界から「能力主義こそ教育荒廃の元凶」と猛反発を受けます。

本田氏はこの反発には誤解もあったことを指摘しています。
そして結果として、職業科の高校増設には至らず、ホワイトカラーを輩出していた高校普通科の生徒が、生産現場に多数就職する流れができます。
高校で学んだ内容と職業の関連性が弱まったこともあり、企業でも専門性や具体的な職務に紐づく評価、給与制度ではなく、曖昧な「能力」に基づく評価、給与制度が広まっていきました。

(就活でも具体的に何を評価されているのか、就職後もどのように査定されているか分からないという方は今も多いのではないでしょうか)

1970年代、石油ショックによる不況もあり、設立コストがかかる職業科の高校を増やすのが難しくなった中で、更に普通科が増加し、学歴や偏差値を重視する社会の風潮が強化されていきます。(普通科の増加は「高校全入運動」を受けたものでもありました)

③「多様な」教育方針と「能力主義」の強化

しかし1980年代に入り、受験競争の激化、学校の画一性、地域の教育力低下が批判の対象になり、政府の審議会で個性重視、主体性、人格の育成を重視することを含めた多様な方針が示されました。

このような流れは学習指導要領への「関心、意欲、態度」の取り入れに繋がっていきます。

また1990年代以降、オウム事件や若者の凶悪犯罪報道が過熱し、ニート、フリーター等が問題となり、若者バッシングも起きました。これらのことから、より「生きる力」「人間力」が重視され、ゆとり教育やキャリア教育が盛んになりました。

こうして、人格面や感情面を含む人間のあらゆる要素を能力という側面から見るようになった一方、受験競争は根強く残りました。(何だか息苦しい状況ですね)

④「画一化」再び登場

1980年代に萌芽が見られ、1990年代以降に本格化したものとして見過ごせないものに「愛国心、伝統を愛する心」と関連した教育の画一化の動きがあります。(個性重視や主体性とは矛盾する気もしますね)

1990年代は慰安婦問題等、隣国との歴史問題、戦後補償問題が本格化し、反発するかのように「日本は戦争でそこまで悪いことはしていない」という歴史修正主義運動が盛り上がります。戦後の歴史教育を問題視する「新しい歴史教科書を作る会」等が設立され、政治家とも結びつき、実際の教育政策にも影響を与えていきます。

そして2006年に新教育基本法が成立し、「伝統と文化を尊重し」「我が国と郷土を愛する」ことが盛り込まれ、「態度」「能力」という言葉が登場します。新教育基本法は、改正学校教育法、学習指導要領にも、より具体的な形で理念が落とし込まれていきます。

また、戦後間もなく排除されていた「教育勅語」について、森友学園(国有地の不自然な価格での売却が問題になりましたね)の園児が暗唱させられていたことが問題とされた際に、政府は「個別具体的な状況に応じ適切な対応をとる」と述べるに留め、政府内でも「教育勅語」に共感する声がありました。

道徳の教科化も始まり、項目ごとに具体的な「道徳的に適切な振舞い」が定められ、評価されるようになりました。人の振舞いは内面の表れとも言えるので、内面を評価するという、戦時期との共通性が見出せそうです。

⑤「ブラック校則」と「絶望」の問題

また、詳細かつ理不尽とも言える「ブラック校則」の問題が発生します。本田氏は荻上チキ氏、内田良氏の調査を参照しながら、「ブラック校則」は昔からあったというよりは、最近できてきたものではないか、という重要な指摘をします。

一方で個性重視を掲げ、もう一方では画一化が進む教育現場において、本田氏は自身の調査から、「道徳の授業が好き」と答える生徒の一部に「服従心」「性別役割分業意識」が強く、より「自分には未来が無い」と考える傾向が見られるとの結果を出しました。

(経済停滞が続くとは言え)一応経済大国で、様々な物に溢れ、一見自由に何でも出来そうな社会において、見えない「何か」に縛られているようで息苦しく、どこにも行けない気がするが、何故どこにも行けないのか、構造や要因が見えない。そんな意識が若者を中心に少なからずあるのかもしれません。

後編では、閉塞状況に対する筆者の対案を紹介し、私自身の感想や本に感じた課題、関連資料の紹介をしていきます。

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