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韓国と私

私は韓国に元々興味、関心があったわけではない。2002年の日韓ワールドカップの時、大学生だっだ私は、韓流ブームが始まりかけた頃で、友達にこの俳優さんがかっこいいと何度言われても、聞き慣れない韓国語の名前に興味すら示さなかった。

それがイギリスで今の旦那さんと知り合い、授かり婚で結婚した私は、韓国の文化も知らないまま、韓国の嫁になってしまったのである。

正直、最初は、韓国語も分からず、嫁として求められるものが大きすぎて、韓国に住み始めた頃は泣いてばかりいた。

妊娠中、つわりのひどい私にお義母さんが果物を剥いてくれたことがある。早速、感謝して頂いたら、お義父さんがまず手をつけるか、召し上がってくださいと声をかけてから食べるのが礼儀だと怒られた。

この年齢になって人から怒られる事も少なくなってきていたし、何より、自分なりにもちあわせていた今までの礼儀や価値観を全否定されているようで辛かった。さら妊娠中でナイーブな私は言われること全てに敏感になっていた。

特に私を悩ませた安否電話とチェサという韓国の習慣。何もなくてもお元気ですか、ご飯食べましたかと気にかけて、嫁が義理両親に電話をする。韓国語も喋れないのに、話すことなんてないと頑固になって電話もしなかった。電話もしてこない、何をしているか分からないと義理母から怒られ、義理の妹からもお母さんに少し電話をしてあげて欲しいと、頼まれたこともある。まさに韓国ドラマに出てきそうな、嫁姑のバトルが繰り広げられていた。

それから、韓国では大切にされている、チェサ。亡くなった祖先を祭る行事で、ナムルやスープやらチヂミやらを大量に準備する。韓国人でもやらなくなってきた家庭も増えてきたが、私の嫁いだ家は年に3回。旦那さんは長男で嫁は私一人。義理母と朝から一日かけて準備をするのである。育児に疲れきっている私は、自分の食べるご飯も座ってしっかり食べれないのに、祖先にこんな大量に作るなんて何のために?生きている人が大事でしょう。と思わずにはいられなかった。乳腺炎で熱があっても解熱剤を飲んで料理をしたりもした。

そんな私は、韓国に住み始めたのが、初めての子どもが1歳くらいで手の抜き方も知らず必死で、言葉も分からず毎日生きることに精一杯だった。初めての子育てで、なんでも完璧にやろうとしていたのに、食べ物の成分表を見ても韓国語を読めず、子どもに食べさせたいものも、使いたい洗剤、ローションも自分で選ぶことすら出来ないもどかしさ。あのハングルが宇宙語にしか見えなかった。

そんな状況である。もう私に何も求めないで欲しい、ほっといてが私の正直な気持ちで、そんな過緊張な日常生活では体調もすぐれないことが本当に多かった。

ここにも書ききれない程、大変なエピソードがたくさんあって、私の韓国生活スタートは、まさにサバイバルであった。

ここまで思いついた通りに綴ってきたが、韓国の嫁はこんなに大変なんだとアピールしたい訳でもなく、私こんな状況良く耐え抜いたって振り返っては、自分を褒めちぎりたい訳でもなく(ちょっと2番目はあるかも笑笑)。。。

何が言いたかったかというと、そんな韓国が嫌いになり、離婚も考えたり、日本に何度も帰りたいと思っていた私が、私の人生で韓国人と結婚して韓国のことをここまで知れたことは、私の人生の福であると思っているという事実である。韓国では『복 받았다.』(福を受けた)と良かったことなどをこのように表現することが多い。

そう10年の月日の中で、私は変わった。何が変わったかって、我慢強くなったとか、異文化に慣れたとかそう言葉では簡単に言い表せない何かが。大変なことの原因が外にあるのではなく、自分の中にあると思えるようになったことが一番大きな変化であるように思う。だって、泣いて傷ついて塞ぎ込んでいたって何も変わらないし、苦しくなるのは自分であることが分かったから。

今では義理母に必要とされ、愛される嫁になった。(根拠のない自信であるが)

この過程については後々、綴ってみたいと思う。

こうやって書き出してみると、辛かった出来事も含め、自分だけの人生、私だけの物語が愛おしくなる。

きっと苦しみの渦中にいると、なんでこんなに辛いことばかりなんだって、前を向けない日もたくさんある。辛い経験がいつかの自分に役に立つなんて人から言われても思えないかも知れない。

でもこんなに嫌いになった韓国を、今では人生の福と捉えている私がいることは事実である。この事実が、また起こる大変な何かを乗り越えていく私を支えていく。

#日韓ファミリー #子育て #韓国  

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