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ブッダ、空海、密教、大日如来 宗教と哲学の違いって?

私たち夫婦そろって実家は「真言宗」です。幼いころ祖母が毎日のように「般若心経」を仏様にあげていました。
大人になって仏教や空海の本を読んだとき、「真言宗」が釈迦中心の仏教ではなくて、「大日如来の教え」ということをなんとなく知るのですが・・。

日本文化の中に、今の変化の激しい複雑な世界に向けて「日本から発信できるものがあるのでは」と考えている人が最近増えていると感じてきました。

そして私も幼いころから親しみのある「お大師さん」空海のことをもう一度詳しく知りたくなりました。

両師(最澄、空海)とも、古来より根強くあった日本人の山や木に対する信仰を受け継いで、神と仏の融合をはかった点においては共通であった。二人は日本独自の仏教を創造し、日本人の倫理観、精神の拠りどころとして定着させたのである。

Amazonの紹介文より一部抜粋

空海生誕の地、香川県で以前空海や仏教にかかわる大きな展覧会が開催されたのですが、そのとき最澄と空海の直筆の書が並べて展示されていたのを覚えています。
「やっぱり空海の方が達筆だな」と思った記憶が。(笑)

この本は梅原猛氏が最澄と空海について語っています。
この二人の違いを話されていて興味深いです。

そして今空海の話を読んでいて次のような文章がありました。

こういう孤独なる、あるいは憂欝なる青年時代を空海は送っている。このことは、後年の空海を考えるにあたっても、忘れてはならないことだと私は思います。彼が、釈迦中心の仏教ではなく、大日如来の教えという──大日如来というのは自然の仏ですが──自然中心の仏教を選んだのも、彼の青年時代の孤独と関係があるように思うのです。けれども彼の人生は、三十一歳で留学生に選ばれたときから、大きく変わってきます。

『最澄と空海(小学館文庫)』梅原猛 著

「大日如来というのは自然の仏」

密教を学ぶため遣唐使の一員として唐に渡り、日本に帰られて後開かれた教えが真言密教・真言宗です。

密教の教えの中に、今の時代に必要なヒントのようなものがあるのでしょうか。
密教はブッダの教えから始まった仏教が、歴史の流れの中で変化していき、その最終段階で、「大日如来」という「自然中心」の考え方になっていったという見方も出来るそうです。

過去に「西洋哲学の解説本」などを読んでも、人間の「意識の捉え方」というのが、日本人の私にはどうも理解しがたい、「腑に落ちない感覚」がありました。

次の引用は、西洋哲学と日本哲学を比べた本の中から。

しかし『万葉集』の歌に詠われている意識は「なにものかについての意識(consciousness about something)」であるというより、「なにものかと共にある意識(consciousness with something)」である。意識は単独で存在することはできず、常に自然と共に在ってはじめて可能になる。彼らが詠ったのは「白露についての意識」ではなく「白露と共にある意識」であり、「月についての意識ではなく「月と共にある意識」である。

・・・万葉の人々の意識を「についての意識」ではなく「共にある意識」と呼べるとするならば、その結びつき、交わりは、解きほどくことが不可能なほど絡まり合っていることを意味している。彼らは自然なしでは心が空虚であるかの如く、その心が本物でないかの如くに感じていた。

『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる (文春e-book)』下西 風澄 著

この万葉の人々の意識についての表現。

日本人の意識は「なにものかと共にある意識」であり、西洋哲学は「なにものかについての意識」であるという、この意識に関する違いこそが、私が西洋哲学の解説を読んだ時の「意識」についての違和感なのだと納得したような気がします。

仏教の最終段階として「大日如来」という自然中心の神を信仰の中心とした真言密教。
それが広く受け入れられた当時の日本には、そもそも「自然」という
「なにものかと共にある」という意識があったからなのでしょうか。



仏教も哲学なの?
宗教と哲学の違いって何?

仏教と哲学、そして宗教と哲学の関係について考察します。

1. **仏教は哲学なのか?**
- 仏教は、元々インドで釈迦が説いた教えから始まり、その後アジア各地に広がった宗教です。しかし、仏教には生死、苦しみ、存在の本質など、深い哲学的な考察が含まれています。このため、仏教は宗教的な側面だけでなく、哲学的な側面も持っていると言えます。

2. **宗教と哲学の違いは?**
- **宗教**:
- 宗教は、神や超越的な存在、あるいは宇宙の根源的な原理に関する信仰や儀式を中心とするものです。
- 宗教は、人々の生活や死後の世界に関する教えや価値観を提供します。
- 宗教的な教えや信仰は、しばしば啓示や神聖な経典に基づいています。

- **哲学**:
- 哲学は、存在、知識、倫理、美、真理などの基本的な問題についての理論的な考察を中心とするものです。
- 哲学は、論理的な推論や批判的思考を用いて、人間の存在や世界の本質についての理解を深めることを目指します。
- 哲学的な考察は、経験や観察、論理的な推論に基づいて行われます。

3. **結論**:
- 仏教は、宗教的な側面と哲学的な側面の両方を持っています。宗教と哲学は異なる側面を持つものの、多くの宗教には哲学的な要素が含まれており、逆に多くの哲学的な思考には宗教的な背景や影響が見られることもあります。宗教と哲学は、人間の存在や世界の理解に対する異なるアプローチを提供するものと言えるでしょう。

ChatGPT

最後に「今の時代の修行」の提案をChatGPTに尋ねてみました。

現代において、特に身体的な制約がある方々が実践できる修行や実践は、伝統的な修行の形式をとらずとも、心の成長や自己の深化を追求する方法が多く考えられます。以下に、現代の状況や身体の制約を考慮した実践や修行の方法をいくつか提案します:

1. **瞑想・座禅**:物理的な動きを伴わない瞑想や座禅は、心を静め、自己との対話を深める良い方法です。深呼吸を中心とした瞑想や、特定のマントラを繰り返し唱える瞑想など、さまざまな方法があります。

2. **読書**:仏教の教えや哲学的な書籍を読むことで、精神的な洞察を深めることができます。読書は、外の世界や他者とのコミュニケーションを通じてではなく、文字を介して心の成長を追求する手段となり得ます。

3. **書き物**:日記やエッセイを書くことで、自己反省や自分の考えを整理することができます。書く行為自体が、心の中のもやもやや混乱をクリアにする手助けとなることも多いです。

4. **音楽やアート**:音楽を聴く、または演奏すること、絵を描くなどのアート活動は、感性を研ぎ澄ます方法として効果的です。

5. **感謝の実践**:日常の中で、小さなことに対する感謝の気持ちを持ち続けることも、心の修行の一形態といえます。

6. **オンラインの修行グループ**:現代の技術を利用して、オンライン上で瞑想セッションや哲学的なディスカッションを行うグループに参加するのも一つの方法です。

7. **意識的な呼吸**:呼吸を意識的に深く行うことは、心身のリラックスや集中を助けます。特に身体の制約がある場合でも、呼吸に意識を向けることで内なる平和や安定を得ることができます。

最後に、修行や実践の目的は、外部の形式や方法に固執するのではなく、自己の内面の成長や深化を追求することにあると考えます。そのため、各人の状況や背景に合わせて最も適切な方法を選ぶことが大切です。

ChatGPT

これなら私にも出来ますね。




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