見出し画像

【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ三(2/4)

 明治時代の密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約4500文字)


 足音を立てないように歩く術は、皆がある程度心得ているものでさほど感心するところでもない。そんな事よりカンの良い奴なら普通に気付いてしまうだろうほどに、玄関の方から鋭く突き刺すような色味が、近付いて来る。
 そっと静かに扉を開け、まずは手元を振り返りきちんと閉める。そして改めて部屋の内側を向き、田添は目線を上げてくる。
「なぜ松原さんが俺を、あの妙なあだ名で呼んでくる」
 思わず苦笑してしまったのは、あまりにもカッチリと色味が、揃い尽くしていたからだ。一字一句たりとも一語一語の並び順に至るまで、言葉以外の色味が無い。
「悪い。つい口がすべった」
「不愉快だ。不愉快だ不愉快だ不愉快だ」
「すげぇ立て続けに四回言った」
 それも同じ色味をきっちりと、四回並べただけの圧力だ。繰り返す度に色が濃くなるわけでもない。コイツのこの妙な面白みが自分にしか感じ取れず、人にも伝え切れない事が、楠原には残念で仕方が無い。
「お前に呼ばれるだけならまだしも、松原さんのいつになくねちっこい猫なで声には虫酸が走る。しかもいつまでもしつこい。こちらは『やめてくれ』と何度も言っているのに」
 それでいいんだ、と楠原は思っていたが、目を細めて笑んだだけで言葉には変えなかった。松原が最も苦手とするのは感情が見えない相手だから、嘘でも作って見せてやった方が、今後気に入られる率が高い。
「構わねぇじゃねぇか別に。本名でもねぇんだし」
 キッと目付きを険しくして田添は、まず左右両側の壁を指差した。「いない」という意味で楠原が首を振ると、次は天井を指してきたので、そちらも見上げて首を振る。
「どっちだ。寝てるのか寝ていないのか」
「今日は上もいないんだよ」
 そうか、と脱いだ外套の下は、学生服でこそなかったものの、学生服の方がまだ良かったかもしれないくらいに、質の良い絹地を着込んでいる。官立の寮の中でも御実家立派組だろう。松原の第一印象が良くなかったのも頷けるが、それにしては田添は、どうもお坊ちゃんめいた色味をしていない。
「今の俺の、立場を表す名前は『田添』だけだ」
 下宿の表玄関に近い、扉側の隅を指差すとそちらに向かう。上の階の、建築を学ぶ者に話して持って来てもらった、太い木材に枝のようにななめに細木を打ち付けた、帽子にとんびのふた組くらいなら掛けられそうなヤツ。
 細木の一つに外套を掛けながら田添は、続けてくる。
「今周りにいる者達も俺の事は、『田添』としか知らない。本名だの偽名だのを俺は、気にした事すらない」
 黒眼の大きな目が、ゆっくりと一度だけ瞬きした。
「そいつは……、すげぇ良く分かるような、さっぱり分からねぇような……」
「何だそれは。お前の方こそどうしてるんだ」
「俺? 俺の方は……」
 ふわふわした赤茶色の髪を、ひと通り掻き回しながらへらっと笑う。
「どうせどっちにしろしっくり来ねぇんだから、なんだどっちも俺の名じゃねぇんだなって、ごまかしながら適当に、やってくしかねぇのかなって」
 つぶらな黒眼の細い目は、瞬きしても素早過ぎて分かりにくい。
「なるほど。すごく良く分かる気もしたが、さっぱり分からない」
 言いながら外套から取り出した紙の束を、楠原に向けて差し出す。
「本部から、支給された」
 折り畳まれ男の手のひらを少し越える大きさになったそれを、受け取った楠原は部屋の真ん中にあぐらで座り込んだ。膝の上に少しずつ、開き始める。
「担当範囲だ。俺達の。目を通しておけ」

 明治二十年代の警察は、まだ組織されたばかり。治安の維持や市民の警護といった目的よりも、かつての士族を吸収し、分類管理するためのものだった。
 とは言え侮れない。重要であり表向きの目的とも繋がっている。職にあぶれた若い男共が大量に世に吐き出されているのだ。何かしらの作業なり目的なり与えてやらなくては、無駄な体力にエネルギーが無意味に発散され、その結果はまぁろくな事にもならない。
「昨年までに集積された情報が、ある程度は記載されているそうだ」
 折り重なった部分をひとひら、またひとひらと広げていく様子を、田添は扉際まで遠ざかり部屋の隅に正座しながら眺めていたが、楠原は首を右に傾けたり、次は左に傾けたり、持ち上げて時計回りに回してみたり、裏側からすかして見たりしている。
 地図の読み方を知らないのか、と田添が呆れ顔になりかけたところで、腰を上げ丸めた布団のギリギリにまで身を寄せて、開き切った紙束を、部屋中に大きく広げてきた。
 東京市内の、浅草と隅田川を越えて東側の地図だ。両手に両膝を乗せ身を乗り出すように眺め出した楠原は、普段へらへらと細めている目も見開き、頬の端までにんまりした笑みを広げている。
 繰り返すが警察は、まだ組織されたばかりでひと世代も過ぎていない。市民達の心情深くにまでは浸透しておらず、信頼なども勝ち取れていない、と言うより腹の底ではなめられている。面と向かってはペコペコヘラヘラやられているが、背を向けた途端に舌を出され、注意された行為をまた繰り返される。
 上層部からは見えにくい、市民達の実態を調査する事が、楠原や田添のような密偵の主な職務になる。
 ついでに言っておくと正規の諜報部員はまた別に存在し、もっと国の中枢近くで政局的か国際的な事案を手掛けている。
 密偵は庶民に紛れ込みながら、言ってしまえば庶民のあら探しだ。派手な捕物が行われる際の、手引きに道案内、前段階の調査に下準備を担当し、有難い事に市民の反感や軽蔑、呑み屋での陰口に嘲笑、新聞雑誌等に書き立てられる噂話といったものも、大部分で引き取ってくれる。身分が公表されない事は、彼等にとっての幸いだ。そうでなければ業務に差し障るだけでなく、以後をまともに暮らす事も出来ない。
「書く物持ってる?」
 声を掛けられて田添は「ああ」と立ち上がった。地図の端を踏まないように歩きながら、懐から取り出した手帳に挟んであった鉛筆を、楠原に差し出す。
 鉛筆に目を留めて楠原は、田添の顔を見上げた。舶来品で高価なはずだが気にする色味は無い。にんまり笑みを広げたまま、口を開く。
「これ、書き込んでも良ーい?」
「書き込む?」
 田添の顔に一瞬(とんでもない)が浮かんだが、すぐに消えた。
「ああ。構わない」
 すると楠原は地図に向かい、
 ーー 近日立入。最重要 ーー
 と太文字で記されてあった建物に、大きくバツを入れた。
「コイツはもうダメだ。稼ぎ頭が金持ち逃げしてからここんとこずっと落ち目。今時こんなとこ行く奴ぁいねぇよ」
 笑いながらゆったり振った首を、スッと据えてまた鉛筆の先を下ろす。
「今の狙い目ははす向かいの、ひと筋裏手にあるコイツ。こっちの客も流れ込んで、ひとしきり繁盛する。そこを一網打尽にしなきゃ意味ねぇって」
 スッとまた先を下ろす。
「こっちの鰻屋は、分かりやすいよな。真裏の寿司屋と繋がってる。うん。だけど、隣の扇屋とだって繋がってんだぞぉ。張ってねぇとあっさり、逃げられる」
 隣に立っていた田添は、そのうちにゆっくりと腰を下ろし、座り込んで楠原が書き込みを入れる様子を眺めていた。地図の上に広がっていく記号に、合わせて聞かされている言葉、書き入れる楠原の仕草に表情も含めた全体を。
 懐から取り出した、煙草を一本口元に寄せかけてまた、箱に戻す。懐にも戻しながらその、片手間のように呟く。
「適当に、言っているわけじゃないんだな」
「適当はこっちだよぉ。笑えちまうくらいなんだ、お話が古いぞ」
 鉛筆の尻でパシン、と紙をはじく音が響いた。
「十五の夏からここいらで夜遊びしてきた俺をなめんじゃねぇっての」
 眉間に深々とシワを寄せて田添は、目を閉じた。右の肩を叩かれ目を開けた先に差し出された鉛筆を、受け取りながら向けられた顔にぼやく。
「誉められた話じゃない」
「誉められたくもねぇよ」
 へらっと目を細めた楠原は、立ち上がると地図の端をざくざく踏み付けにして歩く。窓際の板張りに身を寄せて縮こまるみたいに膝を抱え、文机の上に置いてある、吸い殻も二、三本乗ったままの灰皿に向かって、懐から取り出した安っぽい煙草に火を点けた。
 美味くはないらしくひと息吸い入れた時点で、軽く眉をひそめながら笑う。
「現に客の立場になっちゃいねぇから上の連中には見えにくいんだろ。まぁ連中にしてみたら、はっきり見たくもねぇところだろうけどな」
 特に相槌も返さず田添は、先に楠原が座っていた辺りに位置をずらした。返された鉛筆を、取り出した手帳に挟んで懐に戻し、また懐から鉛筆ごと取り出す。横目に見ていた楠原が、苦笑している様子には気付かない。書き込まれた情報を一つ一つ、自分の手帳にも写している。
 ただ書き写しているだけにしては、一つ一つに掛ける時間が長い。聞かされた内容や地図そのものから読み取った情報も合わせて、独自に整理しているのだろう。
「田添」
 ん、と田添の返事には気が入っていない。
「大丈夫だ。慌てなくていいそのまま、座ってて」
 そこでようやく言葉として、聞き取れた様子でいる。
「何の話だ?」
 言うなり部屋の戸が開いて、腹立ち顔の女将が入って来た。
「やっぱりだ! こらっ! 田添くん!」
 忠告する必要も無かったようだ。慌てる余裕すら無いほどに田添は、目も口も珍しく開けたままにして戸惑っている。
「なんだか人の気配がするねぇ、ボソボソ声みたいなもんも聞こえてくるねぇ、と思ったら! 挨拶もしないで勝手に他所の家に上がる礼儀が、あるとでも思ってんのかい!」
 まくし立てながら女将は急須と湯呑みが二つ乗ったお盆を抱えている。楠原と目配せを交わし合い戸口側の畳にお盆を置いて、「ありがとう」「おやまた地図かい」とか、微笑み合っている。
「変な親御さんや御家庭に育てられたからって、通じやしないんだよ! 周りから見りゃただあんたがおかしな奴なんだからね!」
「用事が、あるのは楠原だけだ。わざわざ下宿屋を呼び立てるのも」
「誰がいつ家の中にいるんだか、分かってなきゃこっちが困るんだよ! 茶も出されずに帰された、なんて他所で話されてごらん! うちは商売あがったりだからね!」
「他所でそのような話をするつもりはない」
 は、とぱっくり口を開けた女将は、しかし閉じた口の端でクスッと笑った。
「言葉通りに聞いてんじゃないよまったく」
 戸が閉まり遠ざかって行く足音を、楠原は目で追い掛けている。足音が田添の耳には届かなくなっても、ずっと。やがて一つ頷くのを見て、田添は口を開く。
「地図を、見られてしまったようだが」
「俺は『地主の次男』じゃねぇか」
 ふむ、と基本事項を確認するように呟いた。
「地質とか地勢とか、土地の使い方ってもんに興味があって、外国の文献も調べたくって勉強に来てる、って話してあんだよ普段から。下宿仲間にも何か面白い地図見つけたら、教えてくれ見せてくれって言っといて、俺の部屋に地図が広がってんのは、当たり前みたいに皆が見慣れてる。いちいちどこの何の地図かまで気にしやしねぇって」
 そうか、と田添は改めて、大した事など何も起きなかったかのように、地図に向き直る。


 | 2 |  | 

何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!