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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』序説(3/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約4000文字)


 それから程無くして、遠野ミム、遠野家の母親は亡くなった。流行り病を得たものだったがそれほど悪質とも思われなかった病で、すぐさま命を取られてしまうほどに、日々少しずつ衰弱していたのだ。人知れず、目にははっきり見えないながらも。
 義視には、すでに亡くなってしまった後で伝えられた。感染しては剣呑だと、義視だけが本宅の、正妻の元に預けられていたその間だった。義視も父も、正妻さえもすぐ治り、また元気になるものと思い込んでの措置だったのだが。
 子供は泣いた。亡くなったその時は昼間だったためか、今ひとつ分かっていない様子だったが、時が経つにつれ黒眼の大きな目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ出し、夜が深まるにつれ身を震わせては、母の亡きがらに取りすがって泣きじゃくった。
「男の子が、そう泣くものじゃない」
 父がたしなめても「なんで?」と、涙を満たした目で食い下がってくる。
「なんで男だと、泣いちゃダメなの? 母ちゃん冷たくなって、固くなってくのに。ここからどんどんいなくなってくのに、なんで?」
 相変わらず、言っている事がなんとなくにしか伝わらない。強い、感情だけで話をするからだ。母親に似過ぎたのか、男のくせに女のように、と父は内心忌々しく思っていた。
「なんで、父ちゃんは泣かないの? ホントは悲しいのに、泣かないでいられんの? なんで、なんで兄ちゃんも泣かせてもらえないの? 兄ちゃんもホントは泣きたいんじゃないの?」
 言われて泣き顔まで向けられた義視は、つられて喉を詰まらせかけたが、目のふち際すれすれまで滲ませた涙を、拭った程度で耐え抜いた。
「潤吉。式の、邪魔になるから」
「イヤだオレ! そんなのウソだ! みんな、オレだけじゃなく泣いていなきゃダメなんだ! 泣かないなんてウソだ!」
 女中に抱きかかえられて下の子は、祭壇の脇にある控えの部屋に移されて、扉の向こうで泣き声が多少なり弱まって聞こえるようになってからようやく、葬儀は始められた。
 妾の葬儀、という事で教会には、また列席者の間には、幾分かの嘲笑に軽蔑の色が入り混じっていた。もちろん喪主として立つ父親に、式のさ中にまであからさまなほどの態度は見られなかったが、満で十歳程度だった義視には、その一つ一つがチクチクしたトゲとなって、顔に身に刺さるように感じられた。
 今日のこの時まではそれほどとも思わなかった、父と、母親との間柄が、何か後ろ暗いもののように。表立って堂々とは口にし切れないもののように。
「この、お像は如何いたしましょう」
 次第に人が減っていく教会堂の、祭壇の中央からまっすぐ表扉へと向かう通路の内で、懇意にしていた女性信者が陶器で出来たマリア像を、父に差し出してきた。故人が日夜和箪笥の上に置き、拝んでいた物だ。
「あぁそれは。義視」
 はい、と目を伏せたままで義視は答えた。「お前に」と向けられたマリア像にも、目を伏せたまま手を伸ばさない。
「いえしかし、私は……。私が、受け取るべき物とも……」
「信仰は、継がなくても構わない。生みの母を思い出す、よすがになれば」
 はじかれたように顔を上げ義視は、むしろ願い出る調子で言い出した。
「それでは潤吉に、渡しては」
 あぁ、と父親の溜め息は、今頃そうした者を思い出したように聞こえた。
「アイツ、いえ、彼の方が、きっと」
「アレにはまた、別に考える。これは、お前に」
 白い洋巾に包み取って、せいぜい高さ三十センチほどの陶器を受け取ったものの、腕の中で収まりがつかない様子でいる。控えの部屋を見やりながらすでに、歩を進めて、
「先に、おばさんの所へ。これを頂いた事を、二人にも」
「欲しがっても渡すなよ」
 はい、と目を伏せたままで苦笑する。見透かされ、忠告も受けてしまえば義視は、父に従う以外に無い。
「あの」
 と言い出した女性に、振り向いた父親の表情は「まだそこにいたのか」とでも言いたげだった。
「差し出がましいようですが、私に。いえ私一人の一存でもないのです。その、教会の方に、お預け下さるわけには参りませんか」
 教会堂には彼女の夫と、他に数名の信徒達が、少し離れた表扉近くに立ち尽くしたまま残っている。視界の端に見える作り付けの椅子に腰掛けている男がいたが、そちらからの視線は届かなかった。祭壇の脇から義視が滑り入った控え部屋の、扉が閉まる音が聞こえた。
「申し訳無いがたった今、息子に、与えてしまった。母を思い出すよすがにと、貴女も、ご覧になっていたものと」
「いえ。お像の事ではなく」
 ベールの内でしめやかに上げられた瞳には、まさしく罪人を見出した色味があった。
「お子さんたちを」
 罪人と見ても、許されると信じた者の尊大さも。父親にはただ不快でしかなかった。
「何を、仰っているのか分かりません。今のは私の嫡男で他所に渡せる者では」
「それではどうか下のお子さんだけでも」
 故人の配偶者としても、子供たちの父親としてもこの男は、不適格だと。少なくとも故人に対して果たすべき義務を、十全には果たさなかった者だと、信じ込んだ熱心な声色だ。
「あまりに、不憫に思われまして。故人は信仰に、大変お篤い方でしたから」
「故人はね。私達は、違います」
 聞けば聞くほどに父親の方では、冷め切ってくる。
「驚きましたな私は、とてもそんな、詳しいところまでは存じ上げないが、そちらの経典には『人の子を奪っても構わない』とでも、書き記してあるんですか」
「いや」
 と作り付けの椅子の並びから声がした。近くに腰掛けてはいたが話に加わっているとは考えなかった男が、顔を上げ、
「いや何も、信者だけで話し合った事でもねぇんだ」
 それまで座面に寝そべっていたらしい男がもう一人、身を起こしてくる。
 どちらも洋装に身を包んではいるが、急に借りてきた物らしく、型は崩れ丈なども合っていない。西洋帽などは、どう扱って良いものか分からない様子で、手の内に回している。
「悪いな旦那とは、面識がねぇんだが、俺が、ここいらで米運んでて、こっちが納豆売り」
 身を起こした方が座ったまま、後ろの列に座る男に帽子を向ける。すると今度は後ろの男が、頭を下げつつ話し出す。
「俺達もこうした所にゃ、とんと馴染みがねぇ者だが、顔見知りの行商人御用聞きのたぐいが、誰一人顔出さねぇってのもなんだなってんで、この二人ばかしが代表でよ」
 相手に事情を把握しながら父親は、表情を崩さずにいた。
「それで代表のお二人が、彼等と何をお話し合いに」
「いや見てて、たまんねぇなって思ってよぉ。あの、下の子は。ちょいとばかしオツムの方が、弱めに生まれちまったばっかりに」
「持て余して、腐らせちまうぐれぇだったらよ。いっそ行く末なんざ諦めて俺ら棒手振ぼてふり連に任せちまうのも、一つの手じゃねぇかなって思ったんだが」
 煙草を口の端にくわえた途端、エヘン、と信者たちの側から咳払いを受ける。おっ、と懐に戻しながら肩をすくめてきた表情は、まだしも歩み寄る様子に見えた。
「見てくれの良いガキじゃねぇか。なぁに俺らの仕事なんざ、にこにこ笑って良い声で、時々客呼ばわってくれりゃあそれで済むんだ。計算が多少出来なくったって、釣りが足りなきゃその場で言われるし、多けりゃかえって常連にならぁ」
 帽子は背もたれの角に掛け、膝の上に両の手を組み合わせて、一つ息を吐いた後で米屋は、顔を上げてくる。
「どうだい。旦那、正直なところ、いらねぇってんなら、くれないか」
 様々な、色合いの感情が混じり合い、父親の表情はかえって淡白に見えた。
「お気遣いは、有難いが無用だ。アレの先行きは、こちらで考える」
 米屋には、いかにも冷淡に見えたのかもしれない。ゆっくりとうつむけた目を閉じて、へっ、と組み合わせた手の震えをごまかすような笑い方をしてくる。
「こいつを、言っちまうのはなんだが、旦那。上の、兄貴の方と比べて」
 祭壇脇の、控え部屋に向けて顎をしゃくり、またうつむけた頭をじんわりと掻き回す。
「こう随分な、開きがあるじゃねぇか。頭の毛もぼわぼわにして、着させてる物に、持たせてる物もくったくたでよ」
「アレの、生まれついての質だ。仕様が無いな」
「仕舞いには、なんだ聞いてりゃさっきから、『アレ』って。あんた、てめえのガキつかまえて」
 立ち上がるなり、襟元を掴み取って来た両の手を、
「名前も、呼んでやらねぇのか。そもそも覚えてすらいねぇのかよおい!」
「待てよ」
 と納豆売りが、間から包み取って離させた。指の形が残った襟を父親は、眉間にシワを寄せながら払い伸ばしていたが、
「誰をどう呼ぶかは私の、勝手だと思うが、他所の子供を随分と気に掛けてくれるものだ」
 口ヒゲに隠れた下唇を、軽く噛んだ上で吐き捨てた。
「そうした趣味嗜好の無い者だと有難いね」
 向かって来る米屋の身に拳を、「まあまあ」と納豆売りがなだめて留めさせている。分業が行き届いている、と父親はどこか余所事のように眺めていた。
「相手は父親、なんだからよ。こっちから是が非でも、奪い取るってわけにいかねぇや。な」
 背を向けさせた米屋の肩を叩き、二人分の帽子を手に取って、両開きの表扉に向かいながら納豆売りも、しかし振り向きざまに言ってくる。
「だがあんた、相当な罪作りだよって、ここいらでずっと話されてた事は、忘れねぇでくんな」
 背中に聞きながら父親は、目の先に祭壇を見ていた。正面の壁中央に掛けられた、十字架と、そこに張り付けられ苦痛に身をよじらせている、男性の姿を。
 こんな陰惨な姿を前にして、何を祈っていられるものか、彼にはついぞ分からなかった。子を抱きながらどこか哀しげな笑みを浮かべる、陶器の女性像ならばまだしも。
「思うがままを、ペラペラと」
 忍び笑いがいつまでも残り続ける方角を、父親は振り向いた。
「口にしても許されるようですな。そちらの、信仰は」
 信徒達はもちろん不快に感じたのだが、「そちらの、神」としなかった分は、彼の辛うじての気遣いだった。


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