You have murdered me./ジーザス・クライスト・スーパースター(2012)

さて、また見た、またもや見たのだ、「ジーザス・クライスト・スーパースター」。こちらは2012年アリーナツアー版。
さてさて。

「バリ現代」

いや、73年版もこれはこれでバキバキにファンキーでナウでヒップで70年代キメてますってなテンションではあったが(だってあのファンカデリックなユダである)、それとは比にならない現代ワープぶりだ。
(まあ、70’sリアタイ世代ではないってのもあるよ)
都会的なコンクリート廃屋を拠点とするジーザスと弟子たち。
現代的であり、少し荒廃した近未来のような。
弟子たちはまるでブラックブロックのように黒いパーカーを纏う。
なんという物々しさ。
あちらが「荒涼」ならこちらは「喧騒」か。
パーカーの下の彼らはものすごく多様です。
様々な歴史的事情で世界中に散り散りになった現代の「ユダヤ」という存在を思うと、ある意味リアルな姿なのかも知れない。

2012年のジーザスはより一層「青年活動家」の風情が増した感じ。
そう、まるで彼はカリスマ性のある左翼の青年活動家です。
あのどこか物憂げで遠くを見ていた「小さな男」の73年ジーザス(テッド・ニーリー)とは明らかに異なる、髪は黒々、目力強めのジーザス。
見る角度により革命家のようにも映るのは感情表現の豊かさのせいか。
こちらに比べると73年のジーザスは随分宗教然というか、超自然的な佇まいだったように思いますね。
2012年は民衆の中の男という色が強く見える。
途中でまるでチェ・ゲバラのような角度で写し取られたジーザスの肖像が投影されるあたり、ものすごく意図して作られたキャラメイクなのでしょうか。

勿論お話としてはアンドリュー・ロイド・ウェバー作曲、ティム・ライス作詞の音と言葉によって紡がれていく、紛れもない「ジーザス・クライスト・スーパースター」。
演出でここまで変われるのが舞台作品の面白い所かもしれません。
映画が自ら出向いて違う景色に行く旅行なら、舞台は同じ部屋をどう飾るか、のように感じます。
同じ壁をどうするかは時代と暮らす人で大きく変わります。
ああ、舞台観にいきたいなあ。
今度ジャージーボーイズ観に行くんですよ、楽しみです。
話が逸れそうです、元に戻る。

さて、もう1人、強烈なキャラメイクで登場する男がいる。
そうユダです。
おいユダ、どうしたユダ、何があったユダ。

「俺には今、ハッキリわかるよ…」

『Heaven On Their Minds 』でパーカーからゆっくりと顔を顕にして歌い始める「警告する者」、そしてのちの「裏切り者」となるユダ。
ドレッド風にセットされた髪は赤く、虚ろなアイメイク。
腕にはタトゥー。随分ロックだな。
これは演じるティム・ミンチンの特徴によるものですが、黒く囲んだアイメイクの真ん中のグリーンアイが非常に印象深い。

73年のユダはアフリカ系の強い男でした。
ジーザスへの警告も非常に熱っぽい、「熱血」という言葉がとても似合う。
砂漠の端っこで歌わされたってメゲねえぞ。

さてこちら2012年のユダが纏うものは「熱」というよりは「鬱」。
彼はとにかく憂鬱そう。孤独で憂鬱な男。
(まあ、もう1人孤独な男はいて、それは紛れもなくジーザスなのですが…憎いことするよねここんとこ笑)
彼にはどうやらこの状況というのは、若さと、新しさ故にもてはやされ、オーバーヒート、制御不能に陥りかけているように見えている。

「俺は群衆が怖いんだ」
「あんたが嘘つきって分かったら、連中は今にアンタを傷つけにかかるぜ」
「ナザレの皆さんがた、アンタらのよく出来た息子は偉大なる無名人のままで居りゃあ良かったんだ!」

うーん、なんてしんどい男でしょうか、ユダ。君友達いなさそうだな。
これがひとつの企業のような成熟した組織ならば、こういった人材も間違いなく必要でしょうが、そうではない。
そしてユダ自身(これは演者と演出のなせる業でしょう)、ジーザスに適切に警告を施す身としては、人間味がありすぎるのです。
流行りの言葉で言うならば「お気持ち」ってやつの声が大きい。
ユダの冷静さを欠いた警告は非常にうるさい。
とてもうるさい。ああうるさい。
…ジーザス、こういう時に顔に出るんだよなあ、君。
そんなわけで、実に面白いキャラメイクとなったユダの話をするみたいです私は。


「聞いてくれよ、ジーザス、こいつはまずい状況なんだ」


「あーあ連中は頭ンなか天国でいっぱいなんだ、おめでてぇこった!」
と現実を分かってんだよ俺はてな風に警告するユダですが、
そういえば口にする言葉は「I Don't Like What I see」なんですよね。
自分の出自を忘れたか、俺たちは占領されてるんだ、どうやって制圧されたか覚えてるか?
仲間とジーザスの行く末を案じるようなことを語るのですが、「とにかく俺は面白くねーんだよ」という主張にも聞こえるわけです。うーん面白いね!

階段のように組まれたセットの中腹でジーザスへの警告を繰り返すユダ。
73年の映画では届かない彼の声は砂漠の中の物理的距離(ちょっと笑うほど遠い)として描かれていました。
(ていうかあの後頑張って走って追い付いたのか、ますます可哀想だけどあのユダなら超ダッシュで走ってきそうだ。)
こちらの2012年版では両者の距離は「人」によって描かれています。
さすがにアリーナの反対側とかに放り出すのは残酷だしな…。
弟子たちと語らい、輪の中で笑顔を見せるジーザス。
輪の外の離れたところで聞いてくれ、思い出してくれ、俺は覚えていると歌い続けるユダ。
たまらず寄っていっても彼はジーザスの正面にまともに回ることすらできないのです。

「聞いてよ、俺はこんなの嫌なんだ、俺はあんたに聞いてもらうことだけを望んでるんだよ」
「忘れないでくれよ、俺はあんたの右腕なんだぜ」

そんなこと言ってるけど心底ウザそうにされてしまうわけです。
ううんこのユダには人望がない。否、めちゃくちゃない。

ジーザスも大変孤独な男です。おそらく誰よりも。
産み育ててくれた母親を「婦人」と呼ばなければならない運命を負ってきた男です。
しかしながら同時に誰よりも人を集めることができる男でもあります。
もしもユダにいくらかの求心力、ジーザスのほんの数分の1でもあれば歴史は変わるのでしょうが、そうはならないのが神の計略。
ジーザスに神の子の使命があったように、ユダには裏切りの使命があった。

皮肉なことに、というかこの物語の上手い所だと思いますが、ユダの感情的すぎる警告を全く耳に入れないどころか明確に拒絶をするジーザス、という「神」や「使徒」といった綺麗な言葉からはかけ離れた、両者のとても人間らしい表情や振る舞いが見れるこのシーンにこそ引き金がある。
いたって人間的に、父なる神の最後の仕上げの7日間が始まってしまうわけです。
なんだ随分人間臭いやつらじゃないかと思わせてくるあたりが「しくじれない計画」としての用意周到な神の筋書きだったとしたら、神様、なんてご趣味をしてらっしゃるのですか。

余談ですけどもジーザスの物語を追っていて、「レ・ミゼラブル」の裏主役ともいえるような悪役 私服警官ジャヴェールというのは非常にユダ的なキャラクターだと思いました。
これが公式解釈なのかは知りませんけども。
ジャヴェールのようなユダモチーフ(のように見える)のキャラクターが後年の創作で生み出される当たり、ただの「裏切り者」で済ませることができない引きが彼にもあるのかもしれませんね。
(モチーフって言うか、想起させるっていうのか?)
そのあたりを考えると、ある意味神にとってはユダも最初から特別な男だったのかもしれないと思ってしまいます。

「こうするしかなかったんだ」

ユダヤの大祭司カイアファのもとへ、裏切りに走るユダ。
仕方のないことなんだと、汚い金のためなんかじゃねえ、言い訳にしか聞こえないこのシーンのユダは転がされ弄ばれるチンピラのようです。
対するカイアファとその舅アンナス。
意図してそう描かれているのでしょう、まるで金融街のユダヤ系ビジネスマンね。
この大祭司カイアファはジーザスの物語では悪役として描かれています。
しかしながら実際はまた少し違ようです。
「ユダヤの守護者」を自負した男、大祭司カイアファ。
彼はローマによるユダヤの大虐殺を経験している。
ローマ統治下で「もめごと」を起こすことの恐ろしさをよく知っている男なのです。
ジーザスの振る舞いの「危険さ」をとても現実的にとらえて行動に移す。
手前の「ホサナ」のシーンに彼がジーザスに感じる脅威は凝縮されていると思います。
あろうことかユダヤの神聖な祈りの場でジーザスはその存在を示してしまうのですから。
こういうとこロックスターだよね。

モンスター級外資系企業傘下の会社の総会でキレキレの若もんがいきなり声を上げるようなマズさがありますよね。
しかもその新人君はいままでの痛いやつとは違ってなんだか「マジ」くさいのです。
こいつは俺の査定にかかわる、どころか、下手すりゃ自分の会社ごと潰されるだかバラされるだかの危機にすらなり得るのです。
ローマはそういうことを本当にやるのです。ゆえに潰すしかない。
そんなところに転がり込んでくるのが「ユダ」という打ちひしがれた男。
ジーザスを止めるにはこうするしかない、とか綺麗ごとを並べながらね。

「血塗られたきたねえ金なんか欲しくないんだ」

カイアファとアンナスにすりゃそんなことはどうだっていいわけです。
彼らにユダの心情は必要なく、必要なのはその情報だけ。
そうはいってもこういう事実(要するに裏切り)でしょうがよ、というのがね、態度に見え見えでいいよね。好きですそういうの。

「手数料さ」

そうやって結局上手くやられてしまうこのシーンは、後の世のユダに対する「裏切り者」の扱いへの予告を見ているようです。
同時に非常にビジネスライクな大人の世界、「数字は人格」「銀行はそれしか見ていませんよ」と言われるあのお気持ちを呼び起こしてもくれます。
おお怖い。
そうして物語は最後の晩餐へと向かっていくわけです。

「この中の一人が私を裏切る」
予言するジーザスと「ハッキリ言えよ」と激昂するユダ。
ここの耐えられないこの様子、お前そういうところだよホントって言いたくなるシーンです。
詰め寄るユダを突き飛ばし(結構吹っ飛ぶんだよな)「出ていけ」とシャウトするジーザス。
ここの悲痛なシャウトは何に対する悲しみでしょうか。
友の裏切りか、抗えない運命に対してか、両方か。
ここまでくると見る側にも「神の計略」というものが感じられてくるように思います。
かつて最も自分を理解していたかもしれない人間が、父の決めた運命を全うするために自分を裏切ることになったことがハッキリと分かってしまったとしたら。
「してもらいたいことを人にしなさい」と説いたジーザスです。
その彼がユダに行った仕打ち、「出ていけ」とは…?
正解は知りませんけど。

ユダの接吻

かの有名なユダの接吻です。
彼がジーザスにキスをすることによって捕縛者はジーザス本人を認識し捉える。
「コイツっすよ、コイツ!」
の合図のなわけですが、ええ、このシーンですよ。
このキスのなんとささやかなこと。
ジーザスは拒むどころかユダを抱きしめる。
この抱擁の意味は何でしょうか。
さんざん拒絶してきたユダを最後に抱きしめる意味とは?
色々な解釈があると思います。
(BLっていう手もありますよ、そりゃ多分ね)
神の計略の中で自分が「神の子」として十字架にかかるために、苦しみながら「裏切り者」となった友人は、どういう風に映ったのでしょうね。
同じ計画の犠牲者としての情か、ここまで事を運んできた末に汚名を着て死んでゆく友人への憐れみか、それとも「また友として」の抱擁か。

「You have murdered me.」俺はあんたに殺されるんだ

「裏切り者」としての使命を果たし自責の念に打たれるユダ。

「どうやって彼を愛したらいいかわからないんだ」

これはマグダラのマリアが歌う内容へのリプライズとなっていますが、ここでこれをこうするのがなんとも憎い。
マリアのそれも、ユダのこれもすべてはジーザスへの愛ゆえにです。
どういう愛か?それはもう見る者のご想像にお任せだけれども、個人的には憧れに近い愛情だったのではと考えます。
横並びでもなければ向かい合うものでもなく一番傍に跪いて見上げるような?うまくは言えませんけど。
頭上の人の光が強くなればなるほど自分のもとには影ばかりが落ちてくるような、そのような苦しみがあったのではと。
光を失った彼の心は「真っ暗」。
闇の淵で彼は歌います。

「俺が死んだら自由になれるかな」
「彼(ジーザス)も、俺のことを愛してくれてたのかな?」

ああ、俺は利用されたんだ、ずっと分かってたんだろ?
どうして俺なんだよ、あんたの忌まわしい、血塗られた犯罪に、どうして俺を選ぶんだとこの計略の作者である神への恨み言と、ジーザスへの愛情で彼の心はグチャグチャです。
「ハッキリわかったよ」だなんてアタマで言っていたこの男が本当に「ハッキリ」とすべてが分かって、闇に落ちるのはこの時です。
まったく、なんて趣味をしているんですか、神。思わず二回目だ。
ここはもう見る者の想像でしかありませんが、この時彼の脳裏で自分がジーザスから受けた仕打ちが録画のように再生され、すべてが紐づいていくのではないでしょうか。むごい。

「You Have  Murderd Me(あんたが俺を殺した)」

ちぎれそうな声で歌い、嗚咽を漏らしながら自らの首に縄をかけます。
最後に愛した男の名前を叫びながら人の生涯に別れを告げる。
この時彼の亡骸がぶら下がる中で聞こえてくる、明るく優しげな「さよならユダ」の声がどこか恐ろしいのです。
こうしてユダはジーザスを愛した男ではなく「裏切り者」として完成する。
感情ではなく事実だけが残るのです。

Superstar

殆どユダの話でここまで来てしまった。
振り返るのはやめにします、ここまできたら続けましょう。
まるでリアリティショーのように決定するジーザスの磔刑のことなども書きたい感じはあるのですが、ユダで通すぞ。そういうのもいいでしょう。

クライマックス、鞭打たれ血まみれのジーザスの背中が露わになり、彼に茨の冠が被せられます。
青年活動家のようだった彼がどんどん今日よく知られている「ジーザス・クライスト」の姿となっていく。
いっぱいの光とともに降りてきた照明の上で高らかにシャウトするのはユダ。
どこか道化的で、この状況を楽しんでいるような空気さえある彼。
「お先に失礼した身で申しますがね」という感じ。

「あんたの顔を見るたび不思議な気持ちだったよ」
「なんで手に負えないようなことやっちゃうんだ?」
「どうしてこんな昔と場所を選んだの?」
「今なら全世界に届けられたぜ、BC4年にゃマスコミもなかったしな」

まるでロックスターのごとく高らかに歌い上げるユダの歌は、ユダ個人の感情と言うよりはインタビュアーのようで、スーパースターの誕生を実況しているようにも見えます。
この物語においてのユダというのは、警告者、裏切者、ジーザスの友人であるとともに、観客と物語との橋渡しという役割を担っているようにも思いますね。

「あんたは誰?」
「何を犠牲に?」
「みんなの言う通りの人だったのかい?」

問いかけるユダの顔は苦しむジーザスとは対極に、瞳は輝いている。
ここに置いての彼の役割や振る舞いって結構不思議ですが(あんなに泣きわめいてたじゃん!)、ひとつ想起されるノリがあって。
それはQueenのヒット作「QueenⅡ」というアルバムなんですね。
あれの最後の曲、「輝ける七つの海」です。
私はあれを勝手に最高のエンドロール曲と呼んでいて、このクライマックスのきらめきとノリはなぜかそれを思い起こさせる。
だって、ロック・ミュージカルだし、ロックだし。

さて、照明装置によって作り上げられた十字架が光を放ち、「父よ、彼らをお許しください」から始まる有名なジーザスの言葉で物語は締めくくられます。
ふぅ~っと大きく息をつきたくなるこのエンド。
かくしてジーザスは時を超えるスーパースターになったわけです。
若くして多くの奇跡を行い、迫害され、裏切りにあい磔刑に処されるというセンセーショナルな死に方で。

これもすべて父なる神の計略通り。
ラストのユダの明るさは、この宿命と自らの汚名に対する自嘲のようでもありますね。
俺たちこんなに踊らされたんだぜ♪みたいなね。

さて、ここまで対して何も考えずに勢いで書いてまいりましたが、私はこのユダが結構好きだ(もうバレてるよそれ)
こういうやつがいないと…いや近所に居たら結構大変だと思うけど、人間は救われないのだ。
だって、実際人間て結構訳が分からないじゃないですか。
映画「アマデウス」でラストにサリエリはこう言います、「私は凡庸なるものの神だ」と。
これはそのまま元をたどればユダの存在に行きつく気がします。
彼はすべての裏切者、落伍者たちのためにそこにいるのでは無いでしょうか。
人のどうしても断ち切れない愛や恨みや憎しみの受け皿、おそらくジーザスでは救えない真っ暗の感情の居場所として彼の存在はあるような気も少しします。

ま、それも神の計略なんすけどね、というところでしょうか。

ユダのことばかり喋ってみました。
きっと何周かしたらまた見え方も変わるのでしょうがそれはまたその時ということで。

次は2000年版にいってみましょうかね。

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