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部内旅行

「今時、部内旅行なんて時代錯誤もいいところじゃない。断っちゃいなよ。それでも来いって言うなら、それは立派なパワハラだって」
同期新入社員の夏子が、大きく目を見開き「ない、ない」というように大げさに左右に首を振る。私は、すぐ近くで、私たちに背を向けて一人で蕎麦をすすっている幸恵に聞こえはしないかとヒヤヒヤし、そっと目で制した。夏子はしゅっと首をすくめると、一段声を落とし、顔を近づけてきた。「60近くにもなるとさ、知り合いだらけの社食で、一人で平気で蕎麦食べられるんだよね。美紀の部、女はあのおばさんと美紀だけなんでしょ、きつーい」

夏子の目にはハッキリとした優越感が浮かんでいた。それもそのはず、夏子は社内でも花形と呼ばれる営業部に配属され、同世代の先輩男女と、毎日のように飲み会やゴルフコンペに繰り出している。それに比べ私は、あと半年で定年退職を迎える幸恵の交代要員として、総務部という雑用係のような部署に配属されたのだ。

「せっかく大きな会社に入社したと思ったら、こんな老人ホームみたいな所でガッカリしたでしょう?私なんて、木内さんのお母さんとお祖母さんの中間みたいな年だものね。でもね、あなたみたいな若くて可愛い子が入って来てくれて、一気に花が咲いたようよ。ほら、あのおじさんも浮き足立っちゃって」

幸恵に「おじさん」と呼ばれた部長の成沢は、ニヤニヤと気持ちの悪い笑顔を浮かべ、露骨に私の胸に目をやった。二人は同期入社らしく、昨年、営業の第一線を外れてこの部に異動してきた成沢の世話を、幸恵は嬉々として焼いている。この前、成沢の頬に糸くずのようなものがついていた時、なんの抵抗もなく幸恵がさっと手を伸ばしたこと、成沢が微動だにせず無言だったことが少し気にかかったが、まさかそれは気のせいというものだろう。

仕事を教えてくれる幸恵が私を見る目は、確かにお母さんよりは優しく、お祖母さんよりは厳しいといった暖かさがあり、私は彼女にすっかりなついていた。

ところがある日、私と幸恵の間に流れる空気がガラリと変わる一件が起きた。営業部から、私のミスを指摘するメールが入り、それに対して私がこう返信したからだ。
「細かな点までご配慮下さり、ありがとうございます」……私としては、新人なりに精一杯丁寧に相手に返信したつもりだったが、そのメールを見た幸恵は、すぐさま相手に電話をし謝ると、私をブースへと呼び出した。

「前から気になってたんだけど、あなたは『ありがとう』と『ごめんなさい』の区別がついてないの。相手の立場になってごらんなさい。あなたがミスをしたことで相手は迷惑してる、つまり怒ってるのよ。相手が求めている言葉は『申し訳ございません』という謝罪の言葉でしょう。相手はあなたに『配慮』なんてした覚えはない、ましてや勝手に『細かい』なんて些末なことのようにまで言われて……お礼さえ言えば丁寧だと思うのは大間違い」

その一件以来、何となく幸恵の態度が冷たくなり、そんな中、成沢の発案で決まった部内旅行がやって来た。何が悲しくて、50や60のおじさんやおばさんたちに混じって旅行をしなくてはならないんだ、と、夏子の顔が浮かんで何度も恨めしくなったものの、何とかひと通りの観光地を巡った後、旅館に到着し、宴会の前に軽く風呂に入ることになった。

服の上からでも、幸恵には贅肉というものが全くないのは見てとれたが、風呂場で裸になった幸恵の体に、美紀は思わずハッと息を飲んだ。幸恵の胸が、まるで幼女のように平らだったからだ。その上、弾力を失ったそのわずかな膨らみは、だらりと左右に流れ、ひどく醜かった。私は、見てはいけないものを見た気がして、弾むような自分の胸を終始タオルで隠した。

「そろそろ、宴会場に行きましょうか」私が幸恵に声をかけると、幸恵は怒りを静かに秘めたような顔つきで、じっとこちらを睨んだまま黙っている。例の、『「ありがとう」と「ごめんなさい」』事件のことが、まだ根強く残っているのだろうか……私が謝ろうとしたその時、幸恵が口を開いた。
「浴衣の上にこれを羽織りなさい」そう言って、半纏を放ってきた。私が、その力の強さに押されて黙っていると、幸恵は地響きのような低い声で、こう言った。
「胸が大きいからって、調子に乗るんじゃない。調子に乗るんじゃないのよ」

成沢が自分に向けてきた視線、それを見ていた幸恵の視線……色んな光景が一気に思い出された。温泉の熱が、時間差で体中に回ってきた。浴衣の下にある私の胸は、今、さぞかし美しい桃色に染まっていることだろう。熱さで意識が遠のきかけたその時、私の口をやっと言葉がついて出た。
「ご忠告頂き……ありがとうございます」

幸恵はなおも私を睨んでいる。私はまた、間違えたのだろうか。

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