日記のメモ書き2022/09/12

朝起きて、高橋源一郎さんの過去回のラジオを聴く
戦争のこと、ヒロシマのこと
戦争は社会災害である、けど、紙一重のところで命がわかたれ、残った人、その子孫らはなにかを背負っている様子
なぜか天災のように語られてしまう、問うべきことがあるのに
(天災による被害も社会災害である側面大きいので、もうちょっと詳しく議論すべきとはおもうけれど)

平和活動と、記憶の承継は近くにあって、時にタッグを組むけど別物
私は切り分けていたいと思う

広島原爆戦災誌第2巻で曾祖母の語りの詳しい部分を調べていたら、曾祖母の旦那さんのその日の状況が分かってきた。
前の旦那さんなので、名前すら私は知らないけれど、彼はあの日、勤め先から家屋疎開に出動していたらしい。場所は中島地区天神町。爆心地から1㎞も離れていない場所で川に入って材木を運んでいた。出動したのは100名ほど、勤め先は元宇品にあったから、もしこの日が出動でなければ、助かっていたかもしれない。
彼が助かっていたら、わたしは、ひいおばあちゃんとは出会っていなかった。そういうことを想う。想うひとがふえていく。
亡くなっていった、語れなかった人たちのことをもっと知りたい。

中島地区(現在の平和記念公園のあたり)の住人らが昭和39年に座談会をしている様子が載っていた。しんどくなってくる、胃が気持ち悪くなってくる。爆心地近くの被災状況は今まであまり詳細に知る機会がなかったが、今日初めてその様子を読んで、ずっと鳥肌が立っていた。
全壊、全焼、即死、電気も配給もこない、遺体は10日くらいまで並んでいたそう。言い難い、しかし同じ情景を見、経験した人たちが、その後の暮らしの様子を語っている感じはもう生活の一部、会話という様子で。
みんなで記憶を確かめ合いながら話す、あそこに最初に住み始めたのが誰だとか、配給が来たのはいつかとか
昭和20年当時にすでに大人だった人たちの、20年経っての語り
今聞くものとは違っている、内容の詳細さや生活感、披露するための語りでもないし、その分とてもリアルに感じる


ひいおばあちゃんの体験記、メモ書き、おじいちゃんが聞かせてくれたこと、家に残っている当時のもの、おじいちゃんの父親・おばあさん、ひいおばあちゃんの旦那さん・そのご家族のこと
これをまた、わたしがどう、他者に伝えられるかたちにするか。
何のために、何を伝えたくて?

何のために?何を伝えたい?
こんどはそこに意識を向けながら、リサーチも進めて、いきたい

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