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もしかしたら虹色より灰色の世界の方が綺麗なんじゃないか

最寄駅近くにある弁当屋にのり弁セールの広告が貼られていた。背景が鮮やかな虹色になってるのを見て思った、もっと他の色あるやろって。なんでか顔をしかめたくなった。別に気にすることはないはずなのに。のり弁はおいしくて、安くなってるのであれば消費者の僕からしたらいいことなのに。

昨今、虹色は”LGBTQ+”およびセクシャルマイノリティのシンボルとして扱われ、そのイメージが年々定着しつつあるように思う。数年前に比べるとシンボルとしてレインボーフラッグを見かけることが本当に増えた。いいことだと思う。誰かにとって生きやすい世界に、すこしずつなって言っているのかもしれない。
でも、日常生活であの色を見ると、なんとなく、何ともいえない気持ちになることが増えた。辟易とか、そういう言葉が近いと思う。

1、2年くらい前から、僕は自分のセクシャリティを語るときに”名前”を使うのをやめた。「男でも女でもない」という説明をよくする。それより前は”Xジェンダー”とか”ノンバイナリー”とかで伝えていた。名前を使ってしまうと、なんだか自分で自分をカテゴライズして「自分はセクシャルマイノリティです!」っていう紹介をしている気になってしまうようになったからだった。まあ、そもそも名前を使ったところで通じないというのもあるのだけれど。
僕がセクシャリティを公言するときは、あくまで己の性自認の複雑さによるコミュニケーション上の摩擦を減らしたいが故で、べつに僕が”セクシャルマイノリティ”であることを知ってほしいわけじゃないので、単なる自己紹介にとどめるために、説明という手段を用いるようになった。
虹色を見かけると、なんとなく、自分自身をカテゴライズして説明するときの感覚を思い出してしまうんだと思う。僕でありたいだけなのに、なにものかにならなきゃいけなくて、カテゴライズして境界線を引く感覚。説明しなくていいならしないけど、その場合僕は問答無用で女の子の側に放り投げられるので、それもそれで結構ストレスになったりする。(それが嫌だからマイノリティ側を自称しているので…)いい塩梅はどんな事象でも難しい。

それでも僕が生きていくためには虹色の世界になる必要があるのかもしれない。今年の東京レインボープライドに行ったとき、なんとなく呼吸のしやすい感じがあった。虹色の世界の中では、僕は何色でなくともよかった。赤と青のグラデーションで自分を説明する必要もなかった。あんまりいっぱいは覚えていないけど、とりあえずメロンパンがおいしかったのはよく覚えている。花より団子。
でも、日常の中でその色を見かけてしまうと、なんか、なんとなく、いやだなぁと思うのだ。俺をなにものにもしないでくれと思うのだ。僕が僕でいるために、今の世界では名札が必要で、虹色に住まうものとして権利主張をする必要がある、っていうのは理解できるのだが、でも、嫌なもんは嫌だ。気を使わせるのも、使うのも疲れた。日常においてなまじ深い話なんて周りの人間としないから、余計に。べつに地団駄踏むほど嫌!ってわけでもない、けど、ただなんとなく、いやだなあって思うことが最近増えた。
ただ、あくまで僕個人の感情の話で、良い悪いの話ではないということだけ明記しておきたい。この概念に、この色に救われる人もいるだろう。というか、かつての僕はそうだった。わかりやすいものがシンボルとしてあること、その下に誰かがいるということ、そしてひとりじゃないってだれかが伝えてくれることですくわれる誰かは絶対にいる。それを忘れちゃいけない。
でも、嫌なもんはなんか嫌。この話は単なる僕のわがままの話だ。

虹の色をかき混ぜると灰色になるらしい。RADWIMPSも言ってたし、実際お絵かきアプリでやってみたら本当に灰色になったのを覚えている。にじいろよりも、灰の色に成れる世界の方が、たぶん僕は生きやすい。それが難しいことなんてわかってるけど、僕はあくまで僕として生きていたいのであって、ノンバイナリーとかXジェンダーとして生きたいわけじゃない。
虹の色だって、本来は境目なんてない。それを言葉というツールで人間が区切っているだけであって。じゃあ、全部まざって灰色でもいいじゃないか。誰が何色かなんてわからないくらいいろんな色の人がいればいいじゃん、区切らなくても。まぁ、シンボルとしてはちょっと、あまりに目立たなさ過ぎるかもしれないけど…
わからない。なんのはなしがしたかったんだろう。なんでもいいや、とにかく、僕が、僕以外の誰かが、こんな気持ちにならない世界にはやくなってしまえ。そんな思考停止の話。

『すると灰の色の僕を眺め 綺麗といったんだ
虹の色を掻き混ぜると 同じ色をしていると』
透明人間18号/RADWIMPS


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