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07.アダムズとリッチモンド

ソーシャルワークの歴史について、少しお勉強です。
 
アメリカでは、実践者や研究者自らがソーシャルワークを育て、専門職に仕立て上げてきました。

国が中心になって、この専門職を作ったわけではありません。

かつてのようにケースワーク、グループワーク、コミュニティワークの3分類でソーシャルワークを分類することはなくなり、現在は、ミクロ、メゾ、マクロに分けていて、ミクロは個人への働きかけ、メゾは家族や団体といった組織への働きかけ、そして、マクロは地域への働きかけということになっています。
組織と地域を含めて、マクロと称している場合もあります。
 
ソーシャルワークの目的は、個人と社会との接触面に焦点を置き、歴史的には個人と社会の間の振り子のもとで、個人か社会のどちらかに重点を置いてきました。
 
それが現在は、個人と社会の両者が対等に強調されていて、ソーシャルワークの目的は、以前はやや個人の成長に重心を置いていましたが、現在は社会の改革にも対等に重心を置くようになってきています。
 
この個人の変化と社会の変化についての両者の起源は、個人ではケースワークの母と呼ばれるCOS運動の中心的人物メアリー・リッチモンドさん、そして、社会についてはシカゴにハルハウスを作り運営したセツルメント運動の代表的な人物のジェーン・アダムズさんの貢献が大きいです。
 
ケースワークの起源になった慈善組織協会(COS)運動と、グループワークの起源になったセツルメント運動の歴史をお勉強してみます。
 
昔の慈善事業は、単純に金品を与えることが主流になっていました。
 
しかし、それでは貧困問題の根本的な解決にはならないと考えて、セツルメントでは民間人が貧困地域に赴いて、医療や宿泊場所を提供して、貧困に苦しむ人を支えました。
 
単に金品を与えるのではなく、貧困地域に赴いて、グループ教育や医療、授産や育児などの様々な面で援助しました。
 
セツルメント(settlement)は、“移住”という意味があります。

貧困に苦しむ人がいる地域に移住して支援する活動でした。
 
元々は、スラム街などの貧困地域に“移住”して支援していたことから“セツルメント”と呼ばれるようになりましたが、現在は様々な貧困地域での支援を広く見てセツルメントと呼んでいます。
 
セツルメントの始まりは、1884年のロンドンでした。

アーノルド・トインビーさんが貧困問題対策としてのセツルメント施設を作ろうと試みている最中に、志半ばで亡くなってしまいました。

その志を引き継いだバーネット夫妻がその名を冠したトインビーホールを設立しました。
 
この世界初のセツルメント施設のトインビーホールには、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の学生が住み込んで活動していたようです。
 
そして、1886年にトインビーホールを設立したバーネット夫妻の教えを受けて、スタントン・コイトさんがニューヨークでアメリカ初のセツルメント施設になるネイバーフットギルド(隣人ギルド)を設立しました。
 
ギルドは、専門職人たちの自治団体のことで、中世ヨーロッパでは専門職人たちが技術を守る為にこのような自治団体を作っていました。
 
ネイバーフッドギルドは、隣人たちが集まって助け合うことを見立てたと考えられます。
 
1889年になると、こちらもバーネット夫妻の教えを受けて、ジェーン・アダムズさんが、当時としては世界最大規模のセツルメント施設のハルハウスを設立しました。
 
セツルメント運動=ジェーン・アダムズさんというぐらい、重要人物です。
1931年にノーベル平和賞も受賞しました。
 
シカゴのスラム街にハルハウスを建設して、週に2000~10000人もの人を支援したようです。

成人の為の夜間学校、幼稚園、少年少女の為のクラブ活動などの機能がありました。
 
1891年には、日本でもセツルメント運動が始まりました。

アリス・ペティ・アダムスさんが設立した岡山博愛会です。

この方は、結婚しないで、自らも質素な生活をしながら、恵まれない子ども達を支援する活動をしました。

肺結核や乳がんに罹患してもセツルメント運動に奔走した聖人のような人物です。

ちなみに、このアリス・ペティ・アダムスさんは、石井十次さん、留岡幸助さん、山室軍平さんと岡山4聖人と呼ばれています。
 
そして、トインビーホールを見学してセツルメント運動に感化されて、1897年に東京にキングスレー館を設立した片山潜(かたやません)さんもいます。

こちらが日本初のセツルメントと言われることもあるようですが…。
 
1921年になって、やっとのことで、日本初の公営セツルメント施設の大阪市立市民館が設立されました。

民間に比べて、公営のセツルメント施設ができたのはかなり遅く30年も要しました。
 
ここまで時間は掛からないにしろ、日本の福祉施策はいつもそう…遅いです。
そのことは今後のお勉強でも多々出てきます。
 
大阪市立市民館では、保健診療や授産、法律や職業相談、学童保育などの多くの事業が行われました。

日本では、セツルメント事業を“隣保事業”と呼び、セツルメント施設を“隣保館”と呼びます。
現在、日本の隣保事業は、第二種社会福祉事業に規定されています。

セツルメント運動は、グループワークの源流です。

更に、YMCA(キリスト教青年会)もグループワークの源流と言われています。
YMCAは、祈祷会や聖書研究の目的に設立されて、レクリエーション活動やクラブ活動などのグループワークを行っていました。
 
グループワークの源流として、セツルメント運動とYMCAをセットで覚えておくと社会福祉士の国家試験に役立ちます。
 
次にケースワークの源流の慈善組織協会(COS)をお勉強してみます。
 
19世紀のイギリスでは、資本主義が発展するとともに貧富の差が拡大してしまいました。

貧困に苦しむ人に対して、個々の慈善活動は行われていましたが、救済漏れや不正受給などがあった為、各慈善団体をまとめて広く援助しようとしたのがCOSです。

個々の慈善組織が相互の情報交換や協力体制を高める為に、イギリス全土に広がりました。
 
このような地域組織化活動をコミュニティオーガニゼーションといいます。

友愛訪問員と呼ばれるボランティアが家庭訪問をするという形で始まりました。

要救済者を訪問し、生活相談とともに救済活動を行いました。

この友愛訪問員がケースワーカーの起源です。

アウトリーチをしていたということになります。
 
セツルメント運動では、貧困の原因を“社会”にあると考えました。
一方で、COSでは貧困の原因を“個人”にあると考えました。
 
COSでは、自助の考えに基づき、“貧困の原因は個人にある”として、貧困者に生活態度の改善を促し、“救済に値する貧困者”と“救済に値しない貧困者”を区別しました。
“救済に値する貧困者”はCOSで、“救済に値しない貧困者”は新救貧法での救済になりました。
 
世界初の慈善組織協会(COS)は、1869年にイギリスのロンドンで始まりました。

セツルメントが1884年のトインビーホールだったので、COSの方が先に始まりました。
そして、ケースワークもグループワークも、ロンドンが発祥の地ということになります。

1877年になると、アメリカのニューヨークでCOSが設立されました。

後に、ここで“ケースワークの母”と呼ばれるメアリー・リッチモンドさんは働きました。
 
リッチモンドさんは1917年に「社会診断」、1922年に「ソーシャルワークとは何か」を発表しました。

ちなみに、リッチモンドさんはハルハウスで事務員をやっていた時期もあったらしく、その時に書いたのが「ソーシャルワークとは何か」だったとのことです。

リッチモンドさんは、これらの著書を発表しながら、ケースワークの専門化に取り組みました。
これに対して、セツルメント運動は、専門化しないで経験や勘で行動すること大切にしました。
 
リッチモンドさんは、ニューヨークで慈善組織協会COSが設立されて20年後の1897年に、全米慈善矯正会議で応用博愛学校の必要性を提唱し、慈善活動の効果的実践の為の夏季養成講座を開設しました。
 
1915年の全米慈善矯正会議では“ソーシャルワークは専門職か?”が発表されました。

この報告はエブラハム・フレックスナーさんによって発表され、このフレックスナーさんによる講演では、専門職が成立する為の6つの属性が明確に掲示されました。
 
➀基礎となる科学的研究(基礎科学)があること
➁知識は体系的で学習され得るものであること
➂実用的であること
➃教育的手段を講じることによって伝達可能な技術があること
➄専門職団体・組織があること
➅利他主義であること
 
これらの属性は医学が“完成された専門職のモデル”として掲示されたものですが、フレックスナーさんは、これらの属性を掲げた上で“現段階でソーシャルワークは専門職に該当しない”と結論を出しました。
 
そこからソーシャルワークの専門職化が活発化しました。
多くの実践活動が展開されていき、1917年に大きく動きます。

リッチモンドさんは、クライエントの持つ問題を収集した基礎資料を科学的に分析し、これに客観的な解釈を加えて人格をできるだけ正確に捉える方法を記した「社会診断」を発表しました。
 
更に、1922年には、ソーシャル・ケースワークは人間とその社会的環境との間を、個別に、意識的に調整することを通して、“人格”を発展させる諸過程から成っていると定義した「ソーシャル・ケースワークとは何か」を発表して、ケースワークを体系化しました。
 
ケースワークは、“人間と社会環境との間を個別に意識的に調整することを通して、パーソナリティを発達させる諸過程から成り立っている”としました。
 
このリッチモンドさんによる“人格”は、狭く限定された人格を意味するものではなく、クライエントをめぐる社会環境の資源、危険、影響についての洞察、更には、社会環境を通して働きかける間接的活動を考慮していて、医学モデルとしてケースワークの発展に大きな役割を果たしています。
 
また、医療の領域においても、アイダ・キャノンさんらが、医師とソーシャルワーカーの連携を重要視し、医療現場におけるソーシャルワークが拡大していきました。

医療ソーシャルワークが発展していくと、ソーシャルワークが細分化し、より専門化する時代に入りました。

その流れで、専門職としてのまとまりを求める動きも発生して、その過程でミルフォード会議が開催され、ケースワークをめぐる基本的な共通事項が体系化されて、現在にも通じるソーシャルワークの骨格が形成されました。
 
第一次世界大戦後の1920年代に診断主義ケースワークが誕生し、1929年に起こった世界恐慌による貧困問題への対応が迫られた1930年代になると機能主義ケースワークが登場しました。
 
診断主義ケースワークは、S.フロイトさんの精神分析の流れを組み、ケースワークを“援助者が利用者に働きかける過程”としました。

それに対して、機能主義ケースワークは、O.ランクさんの流れを組み、人間の人格における自我の創造的な総合力を認め、利用者を中心に、援助者の属する機関の機能を利用者に自由に活用させて、自我の自己展開を助けることを課題として、ケースワークを“利用者が援助者に働きかける過程”としました。

1940年代に入ると、第二次世界大戦により家族基盤は脆弱になり、ソーシャルワークの必要性が高まりました。

その中で、診断主義学派と機能主義学派が対立してしまいました。

診断主義学派はフロイトさんの精神分析理論の強い影響を受け、クライエントの抱える問題の原因をその内面に求めました。

それに対して、機能主義学派はクライエントの自我を尊重する考え方でクライエント自身が問題を解決する過程を助けるものでした。
 
そして、1950年になるとケースワークにおける専門分化の行き過ぎが問題になりました。

この為、“リッチモンドに帰れ”と再統合が進められて、1955年に全米ソーシャルワーカー協会が設立されました。

理論的にも、診断派と機能派の統合が図られて、心理的主義・精神医学に偏って、社会環境の条件を見落としたケースワークの理論に対して、反省して考え直す機会になりました。
 
ヘレン・ハリス・パールマンさんは、診断主義を中心に機能主義の考え方を取り入れて、両者の折衷を図り、問題解決アプローチを体系化しました。
 
“利用者(person)は、社会生活を営む上で援助を必要とする“問題(problem)を持ち、援助者が所属する機関や施設としての“場所(place)と、両者の間に専門的な援助関係を形成しながら目標の達成に向かう為の援助の“過程(process)という4つの構成要素が相互作用することによって、ケースワークは成立していると考えました。
 
これがケースワークにおける“4つのP”です。
 
その後、援助を行う為の的確な知識を有する者である“専門職(professional person)と、援助を行う為に必要な制度…又は援助を阻害する制度を改正させる為の行為としての“制度(provisions)も加わり、“6つのP”と呼ばれています。
 
要するに、相談援助に関することは、行政の各福祉や保健などの担当者や、病院の医療相談員、カウンセラー、介護支援専門員、生活相談員等の専門職だけではなく、その他の生活を送る上で関わっている支援者、サポートする人、そして、本人も含めたものになります。

1957年になると、社会福祉学者のフェリックス・P・バイスティックさんが「ケースワークの原則」という本を発表しました。

その中に“バイスティックの7原則”として有名な7つの原則があります。
 
実は19世紀の後半にイギリスのCOSが貧困に苦しむ人たちに対して友愛訪問員を派遣して慈善活動を展開していた時に、その友愛訪問員に対する訓練を通して、専門的技法として確立したものです。
 
➀個別化の原則
クライエントの抱える問題に、同じものは1つもないという原則です。
これにより、クライエントに対して、環境や人物像、似たような問題に当て嵌めて、同じ解決策をとる…という決めつけを排除し、クライエントの問題を個別化することができます。
外見や性格、日常生活などを見て、“この人はこういう人物だ”とか“どうせやらないだろう”などと決めつけたり、“以前、自分が同じような体験をしたから同じ解決策で何とかなる”などと考えてはいけないという考え方です。
 
➁意図的な感情表出の原則
クライエントが自由に感情表出することを認める考え方です。
特に抑圧されやすい否定的、独善的な感情を表に出させることで、心の枷を取っ払い、クライエントの気持ちを内面から見ることができるということです。
これを実現する為には、話しやすい雰囲気を作れているか、リラックスできているか、クライエントが答えやすい質問ができているか…などのそのクライエント個人個人に合った環境を作る必要があります。
 
➂統制された情緒関与の原則
ワーカーがクライエントの感情表現に吞み込まれてしまわないようにする考え方です。
ワーカー自身がクライエントの心を理解し、同時に自分の感情を統制して接していくことで、クライエントの問題を正確に問題なく解決していく手法です。
この為には、自身の現在の感情を自覚しているのか、目的を意識しながら反応できているかなど…、自分を客観的に見れているかが重要になります。
 
➃受容の原則
クライエントの考え方は、クライエント自身の人物像を形成した個性であり、それを頭越しに否定しないで、その考え方に至った経緯を理解する考え方です。
これによって、クライエントの感情の否定や直接的な命令を禁止しています。
クライエントの個性を尊重することです。
 
➄非審判的態度の原則
ワーカーはクライエントの感情や思考について、善か悪かを判断しないという考え方です。
あくまでもワーカーはアドバイスをする者であり、最終的にはクライエント自身で善悪を判断し、問題を解決するというスタンスを貫くというものです。
物事を多角的にきちんと見れているか、常識という枠組に囚われ過ぎていないか…ということが重要になります。
 
➅自己決定の原則
あくまでクライエント自身で行動を自己決定することが大事であるという考え方です。
問題に対して主体的に解決するのは、クライエント自身です。
行動について自己決定することで、クライエントの成長を促すということです。
非審判的態度の原則とも似ていますが、自己決定の原則は最終的な決断をするのもクライエントであるということです。
 
➆秘密保持の原則
クライエントの個人情報やプライバシーは絶対に漏らしてはならないという考え方です。
現在では当然のことですが、1957年当時は個人情報についてかなり緩い時代でした。
 
相談援助の対象者は、病院の入院患者や施設や介護サービスを必要とする利用者などの限られた人たちだけではなく、相談援助が必要な人すべてが含まれます。

自分から発信できないことで、気付かれていない人も含めてです。

単なる一方的に話したいだけの場合は報告に過ぎないので対象にはなりません。

しかし、話の表面に現れない問題が潜んでいる場合や、初回面談では表出できない場合もあります。

その為に“聴く”ことには、経験と技術が重要になります。

ケースワークは1980年代になると、機能強化やグループワーク、コミュニティワークなどの方法論や技能と統合されていきました。
 
近年では、少子化や高齢化問題を含めて急激な社会変動に伴って、ケースワークの援助概念もどんどん変化しています。
 
様々な社会資源を連携させて結びつけるネットワーク機能や、例えば、判断能力が不充分になった高齢者や、寝たきりの高齢者、また身体障害や知的障害、そして極めて増加傾向が強い精神障害のある人たちで、自己の利益や権利を自分の力だけでは主張、決定できない人の“声”を代弁し、そのような人たちの権利を擁護するアドボカシー機能が重視されるようになりました。
 
現在のソーシャルワークは、ミクロ、メゾ、マクロに分けていて、ミクロは個人への働きかけ、メゾは家族や団体といった組織への働きかけ、そして、マクロは地域への働きかけということになっています。
組織と地域を含めて、マクロと称している場合もあります。
 
ソーシャルワークの目的は、個人と社会の両者が対等に強調されていて、以前はやや個人の成長に重心を置いていましたが、現在は社会の改革にも対等に重心を置くようになっています。
 
次にリッチモンドさんとアダムズさん…2人の人生についても少しお勉強してみます。

メアリー・リッチモンドさんは、アメリカで南北戦争が始まった1861年に生まれました。

3歳の時に母と死別し、育児に関心がなかった父親に代わって、祖母がリッチモンドさんの養育をしました。
 
裕福な家ではなく、当時のアメリカは義務教育もなかったので、リッチモンドさんは11歳まで祖母の方針で学校教育を受けず、自宅で本を読むことで、読み書きを習得しました。
 
その後、高校に行き卒業しました。
 
教職に就きたかったのですが、当時のアメリカ社会では縁故が必要で、その道には進めず、工場勤務や出版社の書記、文房具店やホテルの経理を転々として、10数年の歳月が過ぎました。
その時期は、リッチモンドさんも深い孤独感を感じ、健康も不安定な状況だったようです。
 
1889年に転機が訪れ、ボルティモア慈善組織協会の広告を見つけて、それに応募して会計補佐の職に就きました。
2年後には事務局長の役職を得るほどの能力を発揮しました。

1900年にはフィラデルフィア慈善組織協会が組織再建に向けて、リッチモンドさんを事務局長に呼び寄せました。
そして、1909年にラッセルセイジ財団が慈善組織部を設置したことを機に、部長の任に就き、全国のCOSの指導を様々な調査研究の企画とその成果に基づいて行う仕事をしました。
 
ソーシャルワークの専門職化の勢いが強まったのは、1915年の全米慈善矯正会議でのフレックスナーさんの講演がきっかけになったことは上記しました。
 
フレックスナーさんはカーネギー財団の命を受けて、アメリカとカナダの医師養成の教育機関の実態調査を行った上で、医師の養成課程の改革を提言して、科学的な近代医療を実現させた人物です。
 
フレックスナーさんは、専門職の要件として、6つの事柄を示し、ソーシャルワークは科学的な要素が未発達であるということで、専門職ではないとしました。
 
その後、リッチモンドさんは、1917年に出版された“社会的診断論”で、ケースワークを科学的な実践方法として体系づけて、慈善団体や個人に勘や経験に基づいた援助による慈善事業の1つとして捉えられていたケースワークを専門職として位置付けました。
 
“社会的診断論”は、ケースワークの理論や方法を科学的に体系化し、専門的水準に高めたもので、当時の記録を医学や法学など様々な視点から分析し、対象者を個別の主体性を持った環境の中の人として捉えることを唱えて、ソーシャルワークの基本を確立しました。
 
“個人の改善と社会全体の改善は独立したものであるものの、社会の改良とソーシャル・ケースワークは共に進歩する必要がある”としています。
 
“貧困問題を抱える利用者の社会的困難や社会的要求を把握する為には、社会的証拠の収集が必要である”としていて、この社会的証拠の収集は、“利用者との面接、利用者の家族、家族内外の資源”によって行うとしています。
 
収集した社会的証拠について、“比較、社会的診断”を行うこととし、理論展開しました。
 
この社会的証拠はリッチモンドさんによると、“個人、あるいは家族など利用者の社会的困難の本質とそれらの解決への手段を示す時に、何らかの、そしてすべての事実から構成されるものであり、事実の連続からなる”とされています。

そして、ソーシャルワークは“様々な人の為に、様々な人と共に、彼ら自身の福祉と社会の改善とを同時に達成できるように、彼らと協力して、様々なことを行う技術である”としています。
 
また、1922年に執筆した“ソーシャルワークとは何か?”では、ケースワークの定義を明確化し、その後のケースワークの発達の基礎になりました。
後の診断主義とは別物です。
パーソナリティの発達を、ヘレンケラーさんと家庭教師のサリヴァンさんの例を挙げて、ケースワークの6事例を用いて、理論的に説明しています。
 
“ソーシャル・ケースワーク”は、人間と社会環境との間を、個別に意識的に調整することを通して、パーソナリティを発達させる諸過程から成り立っている“と定義づけています。
 
人を“社会的諸関係の総体”として捉え、この諸関係を調整することでパーソナリティの発達を図るという点に、ケースワークの独自性を求めました。
 
➀社会環境の中の人間として捉えること
➁ケースワークが専門職であること
➂ソーシャルワークの経験を蓄積して実証的に理論家されるものであること
➃利用者の主体性を尊重すること
➄諸科学の知識を基礎とした合理的判断と科学的方法
 
この5つの点をケースワークの基本とし、専門家は訓練と専門的経験を通じて成長していく存在であると指摘しました。
 
リッチモンドさんは、“ケースワークの母”と呼ばれていますが、心理学が精神医学に偏って、診断主義と機能主義の論争が激しくなった結果、対象者が置き去りになってしまうという状態に陥ってしまった時に、“リッチモンドに帰れ”と言われたことでも有名です。
 
自立支援や環境の調整など、支援する際に必要な方法や知識は現在のケースワークの基本になっています。
 
ジェーン・アダムズさんは、1860年生まれです。
2歳で母を亡くしましたが、シカゴで銀行、鉄道、材木商、製粉業を営む大企業家で州上院議員だった父親のもとで何不自由ない環境で育ちました。
父親はリンカーン大統領と南北戦争を共に戦った戦友のような間柄で、ジェーンさんの名前はリンカーン大統領が名付けました。
 
1881年にはロックフォード女学院を首席で卒業し、医師を目指してフィラデルフィア女子医科大学に進学しましたが、父親が急死したこと、自身の脊髄の手術の為に、半年で退学してしまいました。
脊髄の件は生まれた時から抱える持病でした。
その為、子どもを産むことが困難だったこともあり、当時のアダムズさんは、家庭を築いて母や妻として生涯を送ることを考えられなかったようです。
こうして、生きる目的を失い、どん底の精神状態になりました。

その状態で、学友であり、親友でもあるエレン・ゲイツ・スターさんと一緒にヨーロッパを遊学し、その最中にスペインで見た闘牛に衝撃を受け、急遽、生き方を見出し、イギリスのロンドンに向かいました。

1884年、バーネット夫妻が開設した世界最世のセツルメント施設であるトインビーホールに立ち寄ったことが人生の転機になりました。
 
アメリカに帰国後、エレン・ゲイツ・スターさんと共同で、セツルメント開設を構想し、当時、シカゴ最大のスラムだったハシュタット通り沿いにあったハルさんの邸宅を購入して、アメリカで2番目のセツルメント施設のハルハウスを設立しました。
 
ハルハウスは寄付に支えられて、毎週1万人以上の人々の支援をする程に巨大化しました。
最初の10年はヨーロッパからの移民、1920年代にはアフリカ系アメリカ人やメキシコ人が対象になりました。

サービス内容は、大人の為の夜間学校、公共の食堂、ジム、図書館、働く母親の為の保育所、労働組合の集会所などでした。
 
ハルハウスに生きがいを見出したアダムズさんは、後の全米セツルメントハウスを先導する立場に立ち、それだけに留まらずに、1909年には全米慈善矯正会議の議長にもなりました。
 
アダムズさんは、国の機関が組織的に活動しない限り、これらの貧困の問題はなくならないと認識していました。
 
ハルハウスの利用者たちと一緒に、移民を搾取から守り、女性の労働時間の整備し、その上で労働組合を承認しました。

初めての少年裁判法を設置し、安全な職場環境を規定する立法を求める運動もしました。
 
女性参政権の活動や、公民権運動や反差別運動の有力組織である、全米有色人種地位向上協会(NAACP)、米国自由人権協会(ACLU)といった組織の創設メンバーでもあります。
11冊の著書もあります。
 
20世紀最初の10年間に国際平和主義運動に関わるようになり、女性平和党の党首になりました。

1915年には、ハーグ国際女性会議の初代議長に選出されました。
 
アメリカが第一次世界大戦に参戦した際には、参戦に反対し、それに対して国民から批判される…ということもありました。
 
アダムズさんは、貧しい人々の支援、平和主義、社会改革活動、そして進歩的団体の指導者として、国際的に有名になりました。

そして、1931年に、ニコラス・マレー・バトラーさんと一緒にアメリカ人の女性としては初めて、ノーベル平和賞を受賞しました。
 
アダムズさんは亡くなるまで、ハルハウスで生活して働き続けました。

ハルハウスは現在も、彼女を記念する国定史跡として保存されています。

リッチモンドさんはソーシャルワークを学問にしようと努力しましたが、アダムズさんはソーシャルワークを学問として扱うことに疑問を感じていたようです。
 
アダムズさんは、それよりもセツルメントをはじめとしたコミュニティによる実践を大切にしました。
 
そして、リッチモンドさんが個人や家族に注目しているのに対して、アダムズさんは社会問題に興味を持っているところにも相違点があります。
 
日本のソーシャルワーカーである社会福祉士は、基本的に相談員として働きます。

個別援助技術です。

その中でも視野は広く長い目で社会を見る必要があります。

“小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり。”という言葉があります。
 
これは仏教用語のようで、後に、戦国時代の武将である武田信玄さんや京セラの稲盛和夫さんがよく語られていたことで有名になりました。
 
自己満足の為に行う善行(小善)が、それが善意から発したものであったとしても、結果的に人を酷く傷つける大悪になることがあり、それに対して、本気で相手のことを考えて行う善行(大善)は、時として厳しく、情け容赦ない態度(非情)と誤解されることがあっても、努力すれば次元の違う良い結果を生むという意味の言葉です。
 
稲盛和夫さんによると、
 
「人間関係の基本は、愛情をもって接することにあります。
しかし、それは盲目の愛であったり、溺愛であってはなりません。
上司と部下の関係でも、信念もなく部下に迎合する上司は、一見愛情深いように見えますが、結果として部下をダメにしていきます。
これを小善といいます。
“小善は大悪に似たり”と言われますが、表面的な愛情は相手を不幸にします。
逆に信念をもって厳しく指導する上司は、けむたいかもしれませんが、長い目で見れば部下を大きく成長させることになります。
これが大善です。
真の愛情とは、どうあることが相手にとって本当に良いのかを厳しく見極めることなのです」
 
…ということになります。
 
子どもの言いなりにモノを与えたり何でも希望通りにしてしまう親と、子どものことをよく考えて厳しく育てる親の違いのようなことです。
本当の意味で、子どもを育てるとはどういうことか…ということになります。
 
この言葉は、教育だけではなく、医療や福祉、ものづくり、その他、様々なサービス…あらゆる場面で有効です。

福祉の仕事をしていると、小善になりがちな自分に気が付きます。
 
でも、それは無理もないことで、クライエントの望みやそのご家族の望みまでもが、小善を実現したいといった場合が多いからです。
 
クライエントにとっては“今が良ければそれで良い”、支援する側からすれば“早く目先の問題を解消したい”ということになります。
 
その小善の積み重ねで、何となくの状況を維持するという結果になります。
 
このような状況の中で、クライエントの要求にそのまま応えることが、本当に良い結果に結びつくのかどうかを真剣に考える必要があります。
 
その要求はそのクライエントの真の解決策になるのか?と考えます。
 
そのクライエントの将来を見据えて深く考えます。
 
この場合、クライエントが望んでいることは目先のことの解決ということになりますが、長期的な視点や構造的な視点で、環境の大改善をした方が、今後起こり得る新たな要求に対処する為には、適していることがたくさんあるように思います。
 
目先の小善に拘らないで、根本の課題に目を向けて勇気を持って取り組む必要がある場合もあります。
 
時には“大善は非情に似たり”の如く、始めは非情に腹を括って取り組まないといけなくなって、苦しい時間を過ごすことになるかもしれません。
 
それでも、忍耐強く努力を続けると、とても大きな利が生まれるのではないかと考えます。

それが仕事であり、生きることなのかなと思います。
 
目先の小さな結果に惑わされて、大悪に発展し兼ねない小善の小手先のことを続けるのか、そうではなく、クライエントの人生の過去、現在、そして未来を見据えて大善に繋がることをするのか…それが、これからの福祉業界、いや、日本そのものの将来の分かれ道になると思います。

写真はいつの日か…札幌市中央区の豊平公園で撮影したものです。
 

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