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映画『夢見る校長先生』の話

我が子の校長先生

長男たこ、長女ぴこ、次女ちぃは、今、不登校だ。
3学期に入り、3人とも学校に行ったのは、片手で収まるほどの回数だった。それも、2時間くらい。

子どもたちの通う小学校には、とても思いのある校長先生がいた。

校長先生は、たこが用務員さんと畑をやることを許してくれた。
たこは、用務員さんに弟子入りし、畑と、環境整備の仕事をするために学校に行っていた。

校長先生は、「学校が怖い」というぴこの為に、先生方を集めて、両親とミーティングを定期的に持ってくれた。教頭、教務主任、学年主任、担任、学習支援員、特別支援コーディネーターの先生が、『チームぴこ』として集まり、両親とともにケース会議をした。

元気なのに教室に入らないちぃのことも、容認してくれ、会議室を開放したり、心の相談員の先生と校庭で虫を取ったりすることを、温かく見守ってくれた。

校長先生の寛容な対応を受けても、我が子たちは学校に行けなくなってしまった。こんなにも良くしてもらっているのに。

校長先生は、「ご両親だけでも学校へどうぞ。コーヒーでも飲みましょうよ。」と笑顔で声をかけてくれる。
しかし、子どもが学校に行かない。両親もまた、とても学校に申し訳ない気持ちで、学校から足が遠のいてしまっていた。

自主上映会

【まほろばスタジオ】の映画は、子どもをテーマにしたドキュメンタリーだ。『夢見る小学校』『いただきます』『いただきます2』『夢見る給食』そして、『夢見る校長先生』が現在公開されている。

『夢見る校長先生』は、全国の公立学校の校長先生が、“子どもファースト”を考えて起こした改革のドキュメントだった。

通知表の撤廃。定期テスト廃止。宿題なし。校則なし。などなど。
そんな大それたことが、校長権限で実行できるなんて、知りもしなかった。というか、テストなし、通知表なしなんてことが、許される、そんな学校を想像することすらできていなかった。
学校では、テストを受けて、成績が出されるもの。と私の中で考えが固定化していた。

映画を見て、私が感じたことは、先生の仕事って、『子どものワクワクを引き出すこと』だ、ということ。
勉強を教えて、採点して、評価する。それよりも“学校”に求められている大事なことは、“子どもたち自身が学校が楽しい!”と思えること。

通知表を撤廃したから、評価を辞めるのではない。他者との比較ではなく、その子自身が、どんなことを頑張ったか、どう伸びたか、それを保護者に伝えることを重視したい、という先生の思いがあった。

校則をなくしたことも、決まりで縛るのではなく、子どもの考える力を信じたいという思いがあった。
夢見る校長先生たちは、みんな、教育の質、人間の根幹から湧き上がる意欲、というものを重視していたように感じられた。

中でも印象に残ったのは、ヤギを育てる伊那市立伊那小学校。
学校にお泊りした武蔵野市立境南小学校だった。

伊那小学校は、自然の中が教室で、ヤギの小屋づくりや、川でのカニ取りなど、子どもたちが体験を通して学ぶ公立小学校だった。うちの子ら、こういうの好きそうだなぁ。と思いながら観ていた。

普通の公立小学校だから、学区内に引っ越せば、誰でも通えますよ、なんて、インタビューを受けている保護者が写っていたが、移住するとなれば、親側の相当な覚悟が必要だ。仕事の事や、人間関係、大きな問題だ。
きっと、そんなことは言い訳に過ぎない、やりたいならやれ!というのがフットワークの軽い人や、成功者の格言なのだと思う。
けれど、自分にその直感を信じる勇気があるか?子どもの環境の為に、自分の築いてきたものを全振りして挑む勇気が、私たち夫婦にあるのか?
もっと言えば、大丈夫だよっていう保障も欲しい。そんなもの、どこにもないことは良く分かっているのだが。。

境南小学校は、主体的総合学習を掲げていた。子どものやりたいことを実現してみよう!というコンセプトで、その授業は進められていた。

4年生のクラスで、『学校に泊まりたい』というプランが立ち上がった。先生が「良いんじゃない。」とその計画が進んでいく。

子どもたちが自分で電話をかけて、銭湯に交渉したり、夜の学校を探検して、屋上で星を見たり、寝袋を敷いてはしゃいだり。とてもとても楽しそうだ。

私が印象に残ったシーンは、「この“4年生”を、一生の思い出にしたい!」と担任は思っている、というシーンだった。
そんなふうに思ってくれている先生がいるのか。と感嘆した。

1学年、1年間の担任。もちろん子どもと楽しい思い出をたくさん作って、次の学年へ送り出したいという思いは、きっとどの先生にもあると思う。
けど、『一生の思い出に』?その熱量は凄まじいし、懐の深さもとても深い。生徒が我が子並みだ。

そう思えるクラスが素晴らしいし、そう先生が言える職場がステキだと思った。職場が冷めていたら、熱量のある先生の思いもぽしゃってしまうから。

先生もやりたくてやってる。子どももやりたくてやってる。だから楽しいし、充実するのだと思う。そんな先生に出会えて、支えられた子どもたちは、きっと自信をもって、次の学年に進めるのだろうと思った。

アフタートーク

映画の感想を席が近かった人同士でザックバランにおしゃべりする機会が上映後に設けられていた。

みんな、「子ども主体ってすばらしい!」「学校ってもっと自由で、多様であって良いんだね!!」と盛り上がった。

そんななか、目を閉じて考えているおじいさんが居た。持参したノートの数ページにメモを残している。おじいさんの話す番が回ってきて、おじいさんは言った。

「私は、場違いなところに来てしまいました。私は、この映画を直視することができない。どうにも受け入れられない。」
おじいさんは、空気を読まない自分を謝罪しながら、話した。

おじいさんは、80歳を過ぎており、戦後の教育を自分は受けてきた、と言った。自分が生きてきた道を、否定されているような、そんな衝撃を受けたようだった。そして、考えが更新されない自分自身に、憤っているように見えた。

おじいさんが言った。
自由の持つ恐ろしさにも、目を向けないといけない

私はハッとした。主体性!多様性!自由!!そんな言葉に浮かれていた自分に気が付いた。

私自身、学校に通い、先生に与えられた問題をその都度、処理して生きてきていた。今、自分が、「自由にしていいよ。主体性発揮して!」と言われたら、私に何が出来るだろうか。どうしよう。何もない。
やりたいことが分からない。自分にしかできないこと、も分からない。

私は、無意識に、“子どもたちにはきっと出来る!!”と期待していた。自分は出来ないのに。子どもには無限の可能性があるんだ!と信じて疑わなかった。でも違う。きっと私にも無限の可能性があるんだ。けれど、今、自由を与えられて、開花させろと言われても、とても戸惑う。

大人になって、主体性や、自由を得るのは、常識や固定観念をほぐす所から始めないといけないと思う。身近に目標とするメンターもいない。みんな定時を守って真面目に働いている。そしてそれが、たぶん心地いい。責任が最小限で済む。だから、私は、主体性を持てない。このままで良いのかな?と思いながら。

だからこそ。小学校・中学校から、練習が必要なんだと思う。子どものうちから、主体的に。沢山練習して、沢山失敗して、それを乗り越える経験が必要なのだと思う。

自由について

不登校を一緒に闘って来たママ友、戦友とこの映画を見て、“自由”の話になった。

戦友は言った。
「自由、主体性は大いにどうぞ。やれば良いと思う。でもさ、自分の自由の先に、周りに与える影響も考えなくちゃいけないよね。」と。

例えば、授業抜け出して木登りがしたいです!という子が居た場合。その子には、木登りに行く自分と、それに感化される子どもへの責任を伴う。
先生は、「みんなが授業を受けられなくなるから行けません!」と止めるが、仮に許可をだしたら。果たして、授業を抜けだして木に登る子は、クラスに何人いるだろうか?

戦友は言った。
「私だったら、一緒に木登りには行かない。先生の授業を聞くと思う。」
私もそうだ。絶対に先生の話を聞いて黒板を見ているだろう。
きっと、今の子どもたちも、木に登りたいと言い出す、破天荒な子が一人居たとて、クラスの大半は、木に登らずに、授業に残って話を聞くのではないだろうか。

先生は、一人が崩れたらみんなが引っ張られると思って、誰にも何もさせられないんだと思う。自由の先には、責任も伴うことを、子どもが体験から学べる学校って、少ないね、と戦友は言った。

そして、もし周りに影響を与えない自由なのだとしたら、それを否定する必要はない。やらせれば良いんだ。と言った。

ホントにそうだな、と思った。
先生にも、安全上の心配や、監督不行き届きの責任があって、ストップをかけるのだろとは思うが。子どもには責任が取れない、と大人が思い込み過ぎているのかもしれないな、とも思う。子どもがチャレンジして、えらいことになるのは織り込み済み、という余裕は、先生にも、保護者にも、必要な感覚なのだろうと思う。

更に、戦友は言及していた。相手の自由も保障されるなら、自分の自由も保障されなければいけないと思う、と。
「あなたは良くても、私はイヤだよ。」という事は、言っていい!と。

私は、漠然と、「人を傷つける自由はいけないな」と考えていたけれど、そういうことかと腑に落ちた。

追記

主体性、自由を考えた時に、我が子の不登校に対応しているこの現状は、どう理解すれば良いだろう、と考える。

子どもの主体性を尊重しているのか?子どもたちに自由の先に責任があることを教えられているのか?全く自信が無い。

そして、母である私自身の自由は保障されているのか?主体的に、子どもを見たい!と仕事を休んでいるのか?分からない。

映画を見て、考えを更新したはずが、自分の事となると、また答えの出ない迷宮に突入してしまう。

自分への教訓

  • 学校を自由に!主体性を発揮できる子どもに!是非そうしたいと思うが、最初の一歩をどう踏み出せばよいのだろう?と真剣に考えてみる。

  • 自由って、ほったらかしとは違う。



学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。