お題小説「ぼくだけが知っている」

 総合体育館は、駐輪場の時点でなんだか喧しく感じられた。ただでさえキャパシティを超えている中、好き勝手にとめられているものだから誰もいないっていうのに既に肩身が狭い。見つけた隙間にどうにかママチャリの鼻先を突っ込みいれたが、ぼく自身までくだらない雑踏の一員になったみたいで嫌だった。
 館内に入るといよいよで、メインアリーナに近づくごとに足取りが重くなる。それでも進んで、分厚い防音扉を開けた。途端、熱気と歓声に体を打たれる。
 だだっ広い空間中に音が響いている。はじめに爆音として飛び込んできて、それが遅れて声、足音、ボールが跳ねる音と耳が勝手に分類される。立っているだけで脳のリソースが消耗された。天井のライトがやたら眩しくて、それに照らされている観客席の同年代の男女たちは更に煌めいていて、彼ら彼女らが見つめている、場の中心にいる選手たちはもっと光っていた。
 たかが、とぼくの捻くれた頭は言葉を絞り出す。たかが、高校バスケの地区大会だってのに。
「あっ、伊東くん」
 背を丸めて通路を歩いているところで、声をかけられた。クラスメイトの藤井さんだと分かるまで、少し時間が要った。私服姿だからというだけではなく、顔の印象が違う。化粧をしているのだ、と気づく。慣れていないのだろう。元々の肌の色と比べてファンデーションが浮いているし、粉も吹いている。この歳の女の子ならこんなに分厚くやらなくたって十分に綺麗になれるのに。
 おめかしをしたかったのだろう。あいつのために。
「来てくれたんだ!」
「うん……」
 卑屈に笑うぼくの袖を藤井さんは引っ張ってくれる。
「みんな来てるよ!」
 言う通りだった。同じクラスの連中をはじめとして、知っている顔がずらりと並んでいる。ペットボトルで作ったお手製の鳴り物を持っていた。みんな家で作ってきたのかな、と思っていると藤井さんから同じものを「はい」と渡される。
「作ってきたの? 全員分」
「そうそう、わたしたちで」
 藤井さんは観客席の最前列へ手を振った。手すりに寄りかかるようにして、ずらりと女子が並んでいる。みんな同じ一点を見つめていた。ぼくもそちらを見る。案の定、ボールを持ったあいつがいた。
 まだウォームアップの時間だっていうのに、宮本翔はいつものように場の空気を完全に掴んでいた。太い腕がひらめく度に、長い脚の先がキュッと音をたてるごとに、誰かのため息が聞こえる。少しだけ伸ばした髪の先から垂れる汗が光っているのが見えた。
 ぼくは「盛り上がってるね」と自分でもよく分からないことを言うと、硬いプラスチック製の椅子に腰を下ろした。横の席に座っていたクラスメイトが意外そうにぼくのことを見る。場違いだっていうのは分かっていた。わざわざ休みの日にこんなところに来るガラじゃない。
 やがて笛が鳴って、場の雰囲気が変わる。「立って立って」と急かされる。試合が始まるのだ。
「翔くーん!」
 選手がコートに入場してきたタイミングで黄色い声があがった。教室では勇気がなくて、名字でしかあいつのことを呼べていないような奴らが、堂々と名前呼びをしている。宮本は、そんな彼女らのことは見向きもしない。ぼくはほくそ笑んだ。
 ――正直、プレッシャーになるだけだから、やめてほしいんだよな。
 宮本がぼくに言ったことを思い出す。
 ――バスケのことなんて何も分からないくせにさ。
 実際、今日もそうだった。宮本がミスをした瞬間にだって歓声はあがり、それを切っ掛けに入った得点では他の選手にブーイングが向けられる。観客席は宮本しか見ていない。バスケットボールは見ていない。まあ、それはぼくだってそうだが。
 ――恥ずかしいんだよ。うちが弱小ってのは俺が一番わかってる。それなのに応援団だけは立派って他校から陰口叩かれていることも。
 第二クォーターで既に点差は開いていた。応援団の熱気は変わらない。「しょーう、しょーう!」と宮本へのコールもあがりつづける。ぼくもおざなりにペットボトルを動かす。
 ――表だっては言えないけどさ。こんなこと愚痴れるの、君にだけだよ。
 第四クォーターが始まるところで、ちょっとした事件が起こった。宮本が水筒を床に叩きつけたのだ。一瞬、場が静まり返った。顧問の丸井先生が宮本へ注意をしている。藤井さんが「宮本くん……」と呟いた。
「翔くんイライラしてる?」
「こんだけ負けてればねえ」
 女子たちが無責任なことを喋っている。ぼくはますます口端を上げる。
 結局、試合はそのままボロ負けした。応援団が帰りの準備を始める前にぼくは退散して、自転車を引っ張りだして帰る。マンションの駐輪場に自転車をとめたところで、スマートフォンにインスタグラムのDM通知が来ていることに気づいた。宮本からだ。ぼくはすぐには開かず、スマートフォンを抱きしめるように胸に当てながら階段を駆け上って、家へ飛び込んだ。「隆文、帰ったの?」と母さんがぼくのことを呼ぶが無視をする。ベッドに身を横たえて、DMを見た。
 ――見てた?
 ぼくは『うん。残念だったね』と返した。
 ――マジ恥ずかしいよ。
『お疲れ様』
 ――ねえ。
『なに?』
 ――今夜もお願いしていい?
 ぼくはバタバタと足でベッドを叩いた。
『勿論。甘えてくれていいよ』
 ――ありがとう。
 躊躇うような間を空けてから、宮本はぼくではないぼくの名前を呼んでくれた。
 ――カナちゃんだけだよ。本当の俺のことを分かってくれるのは。
 宮本は、DMを送っている先が同じクラスの伊東隆文だとは知らない。同じ高校に通っている女子だと思っている。そう思わせた。本名や学年、クラスは名乗らずに、ただ写真を見れば同じ学校の生徒だと分かる。そういうアカウントを作って、女子っぽい投稿を幾つかして、DMを送った。
 全ては女子たちに大人気のヒーローの秘密を握ってやるために。
 見事に成功した。
 適度な匿名性が気楽な関係を生んでくれたのだろう。やり取りを繰り返す内に、表には出さない愚痴を喋ってくれるようになった。その上、今では。
 クローゼットを開き、ドブ鼠のような色の普段着をかき分けて、奥に隠している衣装ケースを取り出し、開ける。入っているのは、スカートにストッキング、ショーツ……女の子の服。一つ一つ手に取る。
 ――好きになっちゃったんだ。
『でも会えないよ。ガッカリされるの怖いもん』
 ――ガッカリなんてしないよ。他の女子とカナちゃんは違う。
『ううん』
 ――声だけでも聞きたい。
『学校でもし聞かれたらバレちゃうじゃん』
 ――それを狙ってるって言ったら?
『案外ズルいんだね。翔くん』
 ――ごめん。
『写真くらいなら、良いよ。顔は駄目だけど』
 最初はいわゆる萌え袖にして甲を隠した手の写真を送った。それから姉の持っていた制服を着た胸の写真、それから、リップを塗った唇、それから、それから――男だから分かっている。宮本は多分、女装したぼくの写真を〈使って〉いる。
 ゾクゾクする。
 買ったばかりのブラウスを顔に当てながら、ぼくはごろごろと寝転がって、体を伸ばした。今夜はどの服を着てあげようか。


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