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愛でぬりつぶしていきたい

 市川沙央の『ハンチバック』の話から始めたいのです。

 第169回芥川賞受賞作。恐らくはこの記事を読む大体の人が知っていて、大体の人が読んでいない作品だと思います。まあ、芥川賞作品なんて大抵はそんなものといえばそんなものでしょう。
 介護付きグループホームで暮らす、難病の中年女性を主人公にした小説です。人工呼吸器を手放せない。歩くことすらままならない。寝たきりでいることすら辛い。
 そうした女性を主人公にしたこと、そして、その主人公が著者である市川さん自身のプロフィールと重なることが大きな話題を呼びました。もっと言ってしまえば受賞会見の「芥川賞も重度障害者の作家も作品もなかった。2023年にもなってなぜ初めてなのか、みんなに考えてもらいたい」という著者の発言が半ば炎上を産んだ。
 この文章を読んでいる人はきっと、それによって、ネガティブイメージを持った方の人間ではないでしょうか。また、「正しい」お話か。作者が可哀想な属性であることと作品の良し悪しに何の関係があるんじゃ。お、これは健常者による傲慢さですか、はいはい。
 僕個人としても、そうした「正しさ」には辟易とする性質で、上のような発言に「この差別者が!」と雄叫びをあげながら薄っぺらいハードカバー単行本を振り回している文化人の皆さんとかには勘弁してくれと思っていたりしますが、この風潮にはちょっと複雑な思いがあって。
 何が複雑かというと『ハンチバック』は別に「社会の被害者である可哀想な私」の話ではないんですよね。
 主人公である井沢釈華は、明らかに性格が終わっている人物として設定がされている。世界を見る時、そこに常に愚痴や非難があるような人間で(それが不快な感じではなく、ユーモアを交えて書かれているところが評価されている点なのですが)誰からも愛されないし、誰も愛さないようなキャラクターとして描かれている。彼女がそうした人格になってしまったのはどうしてかといえば、それは重すぎるハンディキャップのせいだ、と語られます。序盤に出てくる、「せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに」という文章はタイトルコールがされていることからも分かる通りこの作品の核で、すげえ鋭い一文だと思います。
 つまり、弱者が、誰もが救いたいと思える清廉潔白で可愛らしい人格を持っているだなんて限らないだろ、というか、そんなわけあるか? という、むしろあの会見に反感を持つ側の人間が好みそうなお話なわけです。
 そして、この小説の優れているところはこの釈華の設定や描き方のところだけではないんですよね。もっと重要なのが、誰も愛さないし愛されない弱者をもう一人、出していること。釈華を担当する男性ヘルパー、田中です。彼は「弱者男性」を自認している男で、仕事は黙々とこなしているものの、口から出す言葉からして捻くれている。
 「弱者」である釈華は、同じく「弱者」であるこの田中を利用して、一つ夢を叶えようとする。それは、健常者と同じようにセックスをして、妊娠して、堕胎すること――というのが大まかなストーリー。釈華と田中は愛し合うこともなければ、理解し合うこともありませんが、けれど同等(とはお互いには思っていない。相手を自分よりも恵まれていると考えている)の「弱者」として傷を舐め合う。
 概要を聞いて印象が変わったという人も多いのではないでしょうか。
 身も蓋もないことを言えば純文学にありがちなメンヘラの爛れた性愛小説のキャラクターを現代風に歪めてきた感じ、という雰囲気で、個人的にはそんなに高く買っているわけでもないのですが、読んでいて嫌な不快感(妙な言い回しになりますが、作者がコントロールしている良い不快感というものも存在するのが物語なので)のない小説ではありました。
 登場人物全員を憎たらしく描いているのが良い。
 所謂ポリコレ的な嫌な感じを産むのは、作者が愛を注いでいる人と注いでいない人の落差であることが多いです。絶対的に正しいと認定されている人をとことん持ち上げ、そうでない者を下げる物語は、たとえイデオロギーが作者と合致していてもウンザリする気分になるものです。作者が平等に登場人物を突き放している作品は、作者が平等に登場人物を愛している作品と同じくらい安心して読める。
 とはいえ毒気にあたってしまうところがあるのは確かです。僕の好みでは、作者が平等に登場人物を愛している小説の方が好き。たとえば、レイモンド・カーヴァ―の短篇「ささやかだけれど、役に立つこと」みたいな。

 『ハンチバック』を読んだ後、すぐに「ささやかだけれど、役に立つこと」を読み返したくなったんですよね。実はこの話も構図としては『ハンチバック』と似ているから。全くもって別々の理由で自身の状況を辛いと考えている人間が、触れ合う物語なんです。ただ、『ハンチバック』とは逆で、最後には理解しあう。
 アンはその日、もうすぐ誕生日を迎える息子のためにバースデーケーキをパン屋へ注文しにいった。パン屋の男は無愛想で、アンはそのことを不快に思う。この男くらいの年齢なら、アンと同じようにバースデーケーキを欲しがる子供を持っていておかしくないじゃないか。どうしてこうも素っ気ない態度をとれるのか。この男とはとても仲良くなれそうにない。そんなことを思いながら注文を済ませた時、アンの頭にはこれから起こる悲劇のことなんて何一つ念頭になかった。誕生日の当日、その愛する息子スコッティーが車に轢かれてしまうのだ。
 昏睡状態に陥ったスコッティー。アンは夫ハワードと一緒に彼のことを見守る。どうしてこんな不幸な目に自分たち家族が襲われなければならないのだろう。何か悪いことをやっただろうか。
 アンとハワードに追い討ちをかけるようなことも起こる。家に「スコッティ―のこと」で電話がかかってくるのだ。それはバースデーケーキを取りにこないことに業を煮やしたパン屋からの電話なのだけれど、アンはそんなことはとうに忘れてしまっているから、嫌がらせとしか思えない。
 二人の心が限界を迎えそうになった頃、スコッティーは死んでしまう。呆然自失の中、ようやくケーキのことを思い出したアンは、やり場のない気持ちをぶつけにパン屋のもとを訪れ、そこで夫婦と、パン屋がぶつかるというお話です。
 ここまでだと、何がどうなるかは分からないと思うのですが、最後、パン屋が、夫婦の話を聞いて、逆に自分の話をしたところで、この辛く哀しい物語にほんの少しだけ、暖かいものが湧き出てくるんです。
 作者が夫婦のことも、パン屋のことも、スコッティーも、端役の医者や病院の他の患者や付添人も、とにかく皆のことを愛していることが伝わってくる。愛のある傑作なんですよ。

 何が言いたいかといえば、誰が良いとか悪いとか、そういうのじゃないよな、ということを言いたくて。それを実感したくて21世紀にもなるのに文学というものを読んでいるのだというのを『ハンチバック』のような世界の全てを平等に憎んでいる作品や、「ささやかだけれど、役に立つもの」のような世界の全てを平等に愛している作品を読むと思うんです。
 俺が正しい、あれが間違っている、だと快さがない。とはいえ全てを憎んでいると余りに厳しい。
 どうせなら愛でぬりつぶしていきましょう。


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