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霧よ、再びの栄光を。

 肌を刺すような初夏の冷たい空気。
 午前5時のロンドンは深い霧に包まれていた。
 《非常…宣言下……直ち……避……》
 横転した広報車のスピーカーから途切れ途切れのAI音声が聞こえてくる。
 酷い腐敗臭の漂うゴミ集積場には十数匹ものカラスが群がり、元が何だったのか最早判別もつかないようなモノを啄んでいる。
 
 「グワッー!」

 突然飛んできた石が1羽のカラスの頭に命中し倒れこみ、それを見た他のカラスたちが一斉に飛び立つ。
 石の飛来してきた方向、建物の陰から出てきた浮浪者の老人は、おぼつかない足元、だが素早く集積場に歩み寄ると、もがいているカラスに近づき無造作に拾い上げ、まるでフライドチキンにかぶりつくように一切の躊躇なくその首元に歯を立てた。

 そんな明らかに異常な光景を一顧だにすることなく、集積場の真横を一人の人物が早歩きで通り過ぎた。
 150cmに届くかどうかという非常に小柄な体をミリタリーコートで覆い、長い黒髪を三つ編みにまとめ、頭頂部から後ろに垂らしている。
 アジア系かと思われる風貌だが、顔面はガスマスクで覆われており判別ができない。
 

 「カオルー!歩くの早いってー!」

 その30mほど後方。小走りに追う人影。
 同じようにガスマスクで顔面はわからないが、こちらはコートを羽織っておらず、迷彩色のタンクトップとぶかぶかのダメージジーンズ。
 真っ白な肌に腰まで伸びたブロンドのソバージュ・ヘアー、鍛え上げられていながら尚しなやかなボディラインは明らかに女性とわかるそれだ。
 190cmに届かんという長身を除けばだが。
 カオルと呼ばれた人物は呼びかけに応えることなく、振り返りもせずに心なしか歩行速度を速める。

 「ヘイヘイヘイヘイ!チップを出さない&せっかちなのはジャパニーズの悪い癖っていつも──」

 金髪の女性は軽口を中断し顔を前から左へと向ける。
 集積場にいた浮浪者が駆け寄ってきていたからだ。

 カラスを咥えたまま焦点の定まらぬ瞳、生気のない土気色の肌、振り上げた拳には石が握りこまれている。
 おおよそマトモな人間だとは思えぬ存在に彼女が動じることは微塵もなかった。
 淀みない動作で腰のホルスターから拳銃を抜く。
 静かに、だが素早く照準を合わせる。
 何の感情も湛えぬ瞳を向け、ただトリガーを引く。
  BLAM!
 H&K VP9の9mmパラベラム弾が額の中心を正確に抉り抜いた。
 浮浪者が大きく後ろに仰け反り、前方を行くコートの人物が銃声に足を止める。
  BLAM! BLAM!
 胸の中心に一発。 腹の中心に一発。
 浮浪者は仰向けで石畳へと倒れこみ、2,3度痙攣したのち動かなくなった。
 コートの裾が翻る。

  「命は大事になさいな」
 ”カオル”はそう呟く。若い女性の声だった。

 「やらなきゃやられる、ってカオルがいつも言ってんじゃーん!」
 金髪の女性が笑いながら
  BLAM!
 浮浪者の眉間へとさらにもう一発をお見舞いした。
 
 「マギー、貴女じゃない、彼のこと」 
 カオルは手のひらで浮浪者の遺体を指し示す。

 「なーんだ!なら良いんだけどぉー!」
 ”マギー”、そう呼ばれた金髪女性が答えるが、それを待つことなく、カオルは再び前を向き、先ほどより更に速度を上げ歩き始める。
 
 「ちょ、ちょっとカオルもうちょっとこう余裕を持とうってばさぁー! せっかくのロンドンだよ? あ、ほら!『フローレンス・ナイチンゲール記念館』だって!なんだっけ偉い人なんだよね?女将軍だったっけ!?」
 マギーは案内板を指差しカオルへと訴えかける。
 
 記念館の建物はところどころ崩壊し、窓ガラスはすべて割られ、壁は意味のわからない落書きで埋め尽くされている。
 まるで社会不適合者の溜まり場だ。

 カオルは足を止めず、振り返らずにマギーを諭す。
 「大きな声を出すとまた変なのが寄ってくるから極力控えて。それよりこの橋を渡ったらもうすぐよ、準備なさい」

 テムズ川に架かる橋の向こう。
 霧に覆われてているとはいえ、微かにビッグ・ベンを認識できる。
 マギーは欄干から楽しそうに身を乗り出し、真下を覗き込んで笑った。

 「これがテムズ川かぁー! でもさ、もうお魚さんより死体の方が多いんじゃないかなぁ!?」
 「数えてみなさいな」

 「めんどくさいし、そもそも見えないんだよねー!!」
 「静かになさいと言っているでしょう」


 もし霧が晴れていたならば、彼女の言を証明できていたかもしれない。
 もし霧が晴れていたならば、彼女たちがここに来ることはなかったかもしれない。


 20XX年■月■■日未明、グレーター・ロンドンは濃霧に包まれた。
 はじめは単なる喧嘩の通報。
 だが、朝陽が昇るころ、この人口940万超の世界都市は地獄と化した。
 レッドブリッジ。住民多数による暴動。
 グリニッジ。多数の市民がスーパーマーケットを襲撃。
 ワンズワース。警察署では署員同士による銃撃戦。
 タワーハムレッツ。ビーフイーターによる巡洋艦ベルファスト爆破。

 幸いにして市郊外に脱出した人々の証言により、事態が詳らかになる。
 曰く、人々は異常な攻撃性と食欲を示すようになり、反比例するように理性を失っていったとのこと。
 それは人畜無害な凡人も、素行不良のチンピラも、品行方正な紳士も、聡明剛毅な軍人であっても違いはなかった。
 事態発生から現在に至るまで、英国政府から一切の公式発表はなく、非常事態宣言もどこの誰が流したのかもわからない。
 王室の安否は丸一日が経過した今も杳として知れず、”霧の街”は何も教えぬままにただ死人を増やし、ただ静かに霧を揺蕩らせていた。


 「ここよ」
 
カオルはとある建物の前で足を止める。
 2人の前に立つのはゴシック様式の教会。
 数多くの戴冠式が行われたこの建物も、ナイチンゲール記念館と同じように、荒れ放題の庭、割れ放題の窓、無数の落書きと、世界遺産として見る影もない姿を晒していた。

 「ウェス──」
 「ウェストミンスター寺院かぁ」
 
カオルの言を遮ってマギーが建物の名を呟く。
 驚いた表情で自身を見るカオルに対し、マギーはドヤ顔で案内板を指す。
 カオルは小さなため息をひとつつくと、寺院の入口へ歩き出し、マギーもそれを追う。
 
 寺院入り口まで10m。
 2人が同時に足を止める。
 門の前でうつ伏せに倒れていた衛兵がゆっくりと起き上がる。
 目に光はなく、半開きの口からは涎が溢れ、そしてやはり生命力の感じられぬ土気色の肌。
 衛兵は頭だけを90度回転させ彼女らの姿を確認すると、手にした儀仗を大きく上段に振り上げる。
 既にホルスターに手をかけていたマギーを、カオルが手で制する。
 「弾だってタダじゃないの」
 
そう言って無造作に衛兵へと歩み寄る。 

 「UGAAHHHH!!」
 
衛兵はカオルの頭上に儀仗を振り下ろす。
 しかし彼女はそれを左腕で内から外へと払うと、返す刀で右の貫手を喉元へと突き刺した。
 激しく血を吐き、衛兵は石畳へと膝を突く。
 カオルは穏やかな笑みをひとつ零すと、そのままシューズの踵で哀れな愚か者の後頭部を踏み抜いた。
 彼がこの寺院を守ることはもう、無い。

 「命は大事にしないとねぇ!」
 彼の横をマギーが通り過ぎていく。

 2人は寺院の入口に揃って立つ。
 
 「マギー、仕事を始める前にひとつだけ言っておく」
 「なあに?」
 「フローレンス・ナイチンゲールは女将軍じゃない」
 「マジ?」
 「マジ」


 カオルはコートを脱ぎ捨てる。
 真紅に黒の鉤十字が刺繍された上下の拳法着。
 胸の前で拳と掌を合わせ、一礼。

 「お迎えに上がりました。総統閣下マインフューラー

【続く】

※この作品は『むつぎ大賞2023』エントリー作品です。


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