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クリプト都市ツークを歩く***

謎の街ツーク

ブロックチェーン産業が中央スイス地方の小都市ツークに集まるようになってから数年が経つ。スイスの数ある都市の中でなぜツークが選ばれるのか。最大の理由が低税率であることは知られているが、それ以外に特段の魅力はあるのだろうか。いったいツークとは、どのような街なのか。事前の知見を持たずに、街を歩きながら理由を探ってみた。

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クリプト街おこし

ツークという小都市がブロックチェーン産業の中心となっていることは、関係者の間ではよく知られている。だが、なぜツークなのだろうか。低税率が理由であることは間違いない。だが、アメリカ合衆国のデラウエア州にクリプト産業の過半が集まっているという話は聞かない。低税率は重要な要素であるが、決定的な要素でもない。

欧州勤務が長いという方にお聞きしたところ、あれは町興しのようなものではないか、という答えが返ってきた。そんなに簡単に町興しはうまくいかないだろう、という感想も付け加えられた。

もし低税率だけを目玉として村興しを試みているのであれば、確かに長続きはしないであろう。

そこで、街を歩きながら、理由を探してみる。

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ドイツ語圏スイス

街歩きには、コミュニケーションが欠かせない。ツークの人たちは、何語を話すのであろうか。

スイスには4つの公用語があり、フランス語圏、ドイツ語圏、イタリア語圏、ロマンシュ語圏に分かれる。ツーク州は概ねドイツ語圏に属する。

ツークの街でカフェに入ると、メニューはドイツ語と英語で書かれている。ローカルの店では、ドイツ語のメニューしか置かれていない。なにしろドイツ語固有の文字があるため、「ウムラウト」の入力方法を知らないと、インターネット検索すらできない。ドイツ語の文字列をスマホで光学的に読み取り、アプリで英訳しながら解読する。

ある店では、いきなり店舗カードを渡された。見ればQRコードがついている。ホームページに飛べば英語メニューが置いてあるから、それを見て注文すればよいという。ドイツ語の街であるが、ドイツ語を話さない客に対しても親切にしてくれる。

お店にやってくる地元客の大半がドイツ語を話す。ドイツ語で挨拶を交わし、ドイツ語で世間話をする。これだけを見れば、ここは完全なるドイツ語圏である。

もっとも、ドイツ人のタクシードライバーによれば、このあたりのドイツ語はやや独特であり、標準ドイツ語を話すドイツ人にとっては、慣れない方言のようなものだという。

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多言語国家スイスでは、どこまでが方言でどれが言語かという難問がある。ロマンシュ語が方言から公用語に「昇格」したのは1938年のことであった。それを決めたのは、スイスのお家芸とされる国民投票である。

かくも複雑なスイスの言語状況については、スイス公共放送協会の国際部が運営する、スイスインフォ(swissinfo.ch)のページに、3本の詳しい記事がある。

1つ目の記事は、スイスのドイツ語圏の方言について取材したもので、標準ドイツ語とスイスドイツ語の使い分けについて、実例を交えて紹介する。

2つ目の記事は、スイスには小規模な方言が多数存在しており、どこまでが方言で、どこからが言語かという線引きが、容易ならざることを指摘する。

3つ目の記事は、第4公用語であるロマンシュ語が消滅しつつある実態について、危機感を示す。

これらの記事からは、スイス連邦の多様性が伝わってくる。

ロシアンカフェ

ドイツ語の看板の目立つツークであるが、街を歩いていると、時折、ドイツ語に併記されたロシア文字が目に入ってくる。店頭に手造りの氷菓子を飾っているロシアンカフェは、店を開いてまだ半年足らずだという。

ウラジオストックから移住してきた一家が経営する店は、奥に作業場があって、天然由来のジャムや冷製スープを作っている。ボルシチの材料になる赤カブを使った瓶詰ジュースや、Konbu-Chaと書かれた昆布茶の瓶詰も売られていた。

店番をしていたロシア系の若者は、ドイツ語はあまり得意ではないという。彼女は小さい頃に一家で釜山に住んでいたことがあって、少しだけ韓国語を覚えている。「韓国語は忘れました」と、韓国語で発音してみせてくれた。

店の脇には十数人ほどが入れるスペースがあり、その日はロシアの刺繍を習いに来た近所の人たちが集まっていた。ロシア文化を習うお客さんたちがロシアに縁のある方なのかは聞かなかったが、ロシア系の人たちにとって住みやすい街であることは確かなようだ。

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富裕税の値引合戦

ツークが海外からの移住者に優しい街であることは、漠然とした印象として見えてきた。だが、イノベーションを追う企業の集積地になった理由はどこにあるのだろう。やはり、低税率であることが唯一最大の理由なのであろうか。

再び、スイスインフォのページを探してみると、富裕層だけに課される富裕税なる制度について解説した記事が見つかる。ツークは富裕税の設定が絶妙であるらしい。

ツークの成功を目の当たりにしたスイスの他の都市が、それを真似て富裕税を低率にしてみたが、うまくはいかなかった。ただ、貴重な財源を失うだけに終わった。そんな実例が紹介されている。

では、なぜツークだけがうまくいったのであろうか。

富裕税導入の障壁は、手元に現金がない富裕層は納税の元手がないということだ。

起業家は、ベンチャーキャピタルによって高評価され多額の投資を受けながらも、実際の収入には乏しく納税できないというケースが少なくない。

ツーク州は、新興企業が証券取引所に上場されるまで経営者の富裕税を非課税とした。

こうしてみると、ツークは起業家にターゲットを置いて、その資産形成のパターンに適した税制を敷いていることがわかる。ただ税率を低くするのではなく、富裕税を払ってもらえるまで辛抱強く待つという策である。蒔いた種の芽が出たところで刈り取らず、豊かに実るのをじっくりと待ち、収穫の分け前を受け取る。

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記事によれば、富裕税というスイス固有の制度は、広く支持されているようだ。

富裕税を支持する秘密は「ただ乗り市民」の発生を防ぐ役割にある。

キャピタルゲインに対する税が限られているスイスでは、富裕税がなければ財産があるにも関わらず税で何の貢献もしない市民が生まれてしまう。

富裕税は長い間、物事がきちんと回るために必要な要素の一つとして受け入れられ、存在してきた。

こうしてみると、富裕税を免除するのではなく、あるいは過度に低率にするのでもなく、支払うタイミングを適切に設定したことが、ツークが成功を収めた理由であることがわかる。

それまでバーチャルだった計算上の資産を現金化して、ようやく富裕税を支払えるようになった新たな富裕層たちは、満を持して大きな年貢を納めてくれる。

それこそが、ツークの財政を潤す原資となっている。

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税をめぐる州間競争

ここで注意を要するのは、個人に対して課せられる所得税と、富裕層だけに課される富裕税、そして、企業に対して課せられる法人税のそれぞれについて、都市間の競争が存在するということである。

スイスインフォの記事は、法人税についても解説している。スイス国内で立地を探す多国籍の企業にとって、もっとも有利な州と不利な州をランキングで示し、上位5州と下位5州を比較する。

UBSの競争力指標は、立地コスト、高技能労働者、輸送網など八つの項目でスイス各州の経済的な潜在力を測った。

多国籍企業がオフィスを構えるのに最適なのはチューリヒ州とツーク州で、ジュラ州やグラウビュンデン州など地方部の州はランキング下位の常連だ。

ツーク州のブロックチェーン企業(中略)など、最新技術の企業を呼び込んで集積させてきた州は、他の地域に比べると税制上の魅力がさらに増す。

すなわち、ツーク州は法人税制のみでなく、イノベーションに適した環境を作り出すことを含めて、総合力で1位の座をキープしている。

これに対して、近隣都市や他の州は法人税率の低率化だけを道具に競争しようとした。だが、得られるべき法人税が得られず、財政不足の結果だけが残った。

このように、ツーク州は富裕税の設定だけでなく、法人税の設定においても、総合的にみて「うまく」戦略を組んで、税収を上げていることがわかる。

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湖に浮かぶヨット

中央スイス地方に居ると、夏の宵は長い。夜遅くまで明るい陽の射すツーク湖では、ヨット遊びに興じる人たちや、水上スキーを楽しむ人の姿が見られる。湖を囲むように山並みが広がり、山際にはレストランが点在する。自然を贅沢に楽しみながら、人々が豊かに暮らしている。

湖にヨットを繋留する料金はすこぶる高い。市街地の中心地にある広場の目の前に船を留めているのは、おそらくは富裕税と縁のあるような人物であろう。一方で、浮かぶヨットを眺めながらゆったりとした時間を過ごすことは、誰にでも開かれた楽しみ方である。ベンチに腰をかけた若者が、いつまでもヨットを見つめている。

チャンスを求めてやって来る人たちと、成功を得た人びとがそれぞれの役割を果たしながら、同じ街に暮らす。暮らしやすさを求めて世界から集まる才能と、才能を伸ばそうとする先達が共存する。そして、戦略的な税制がその間を繋ぐ。

こうして微妙なバランスを保ちながら、この街は発展を辿っていく。

湖畔の石畳を歩きながら、そんな印象を受けた。

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Photos by H.Okada in Zug.