この感情を上書きされたくなくて。

 ネタバレ忖度する余裕がなかったので、『花束みたいな恋をした』を見た人、絶対見る予定のない人だけ覗いてくれたら嬉しいです。

 この話が自分の話かどうか、はじめからそればっかりを考えていた。

 最初この映画を知った時「菅田将暉×有村架純の純愛映画…めちゃくちゃ話題性ありそ……」と思ったけれど、絶対私が見たら(羨ましさで)しんどくなるやつだとも思ったので、あまり見るつもりはなかった。

けれど、この物語が一つの恋愛の始まりから終わりを描いた物語だと聞いて、観に行くことを決めました。(あと最近よく覗いているドラマ垢の方々の評判がよかったからと、次クールドラマ「コントがはじまる」のキャスト発表を受けて見ないわけにはいかないなと思ったから)そんなわけで、「私が見るべきものではないかもだけど」という前提で観に行ったこの映画に、最後まで「自分の話どうか」ということに翻弄され続けた話をさせてください。

 麦と絹の、運命を感じずにはいられない共通点の数々。好きなものが一緒というだけで人は無条件に近しくなれるし、ずっと考えていることが一緒だったら軽率に「運命かも!」と感じてしまう。そして、その瞬間の感動は、自分の大事にしているものへの思いが強いほど、大きいと思う。私は、麦と絹の好きな「カルチャー」の部分が分かるようで分からなかったけれど、彼らの興奮は、手に取るように分かった気がした。前半30分を見ている時の鼓動の速さがそれを物語っていた。

 だけど、どうしても共感しきれない部分がいくつかあって。それは自分の抱えている劣等感でもあるから恥ずかしくて書きたくもないのだけど、そもそも大学生の頃から終電より門限の早い私には、「終電を逃した出会い」なんてものが生まれるはずもないし、私は楽しみにしていたライブを逃したり忘れたりなんてしないし。ロケーションを優先して最寄りから徒歩30分の場所になんて住めないし、もちろんフリーターになんてなれるわけがない。こんな感情を持ったまま、中盤から終盤に向けての二人のすれ違いを見ていくうちに、感情の移入先が迷子になった。

 「二人の現状維持のため」に、好きなことだけをしていく人生から社会の一員になる人生を選んだ二人。二人がもし世の一般的なタイミングで社会にでていたらこの物語はどうなっていただろう、なんていう妄想は置いておくとしても、この辺りを見ながら、自分も含めて、当たり前のように自由だった大学生活からたった数日で社会の歯車となる世の大半の人たちは、どうして普通にいられるのだろう、と考えてしまった。そして優先順位が同じじゃなくなっていく二人を見ていると、私は麦に共感することが多くなっていった。与えられた仕事にひたむきに向き合う麦の全ては「二人の現状維持のため」なのに…と。

 だけど、しんどくなるほどリアルな別れの場面を見て、「あぁ、これは自分の話かどうか、誰に共感するか、なんて次元の物語じゃないんだ」と気づいた。新卒で社会の放り出されて立ち止まる間も無く歩き続ける私たちは、それぞれがそれぞれに閉まっている何かしらの思い出をこの二人に映すのだ。

 この物語には「みんなの憧れと現実」が少しずつ混ざっていて、麦と絹は私じゃないし、私は他の誰でもない。そんな当たり前のことに、ファミレスで別れ話をする二人(とその奥にいる初々しさ全開の二人)を見て気づかされた。それにしても、麦と絹はきっと、思い出を浄化するのが上手な二人なのだろうなぁ。

 (ちなみに、清原果耶ちゃんがいつ登場するのか楽しみにしていたらその前に古川琴音ちゃんの登場に驚かせられたっていうのも、どこかで呟かなければと思った話。お二人とも存在感が絶妙に良すぎた。)

 この映画を見て私は、角田光代の『さがしもの』という小説の中のある短編の、「本棚の本が似ていたって恋は終わる」という一文が浮かんで、頭から離れなくなった。私は麦でも絹でもないし、麦と絹の新しいパートナーでも、もちろんない。この作品が教えてくれた大事なことは分かっているつもりだけど、それでも私はこの映画を見終えて、今村夏子を読むために図書館に向かった。「ピクニック」を読んで、自分が何を感じるのか、試したくなったから。


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