ノリと直感だけで生きる、最後に頼るものについて

ファミレスでメニューを選んでいると悩んで決められないことがある。そんなときには先に店員さんを呼んで、注文を聞かれた瞬間にノリと直感で決めたりしている。同じようなことをしている人は少なくないと思う。

なにか大きな決断をするというときにも、ノリと直感で決めている。転職も独立も、結婚も離婚も、身寄りのない土地への移住も、ノリと直感で決めた。将来は予測できないのだから、正解なんて存在しない。もちろん考える。できるだけ有利な道を進みたい。けれども正解が存在しない以上は結論が出ることはない。株式投資でアナリストが選んだ銘柄とサルがダーツを投げて選んだ銘柄とでは成果が変わらないそうだ。そこで最後にはノリと直感に頼る。外れたらどうするんだという不安はない。なにしろ正解がないのだから外れようがない。

ノリと直感で決めても大きな後悔をしたことがない。いろいろな選択をしてきた結果としていまの自分があるわけだけど、これは常に正しい選択をしてきたというわけではなくて、すべて偶然なのだと思う。「進化は現在から見ると必然だが、過去から見ると偶然だ」と生物学の講義で聞いたことを思い出す。つまり、ヒトはヒトに向かってまっすぐに進化してきたわけではなくて、その時々で進化の方向はバラバラだ。バラバラな方向の偶然が積み重なってヒトが誕生した。いまの僕らから見ると必然的に進化してきたように見えるけれど、過去の各時点においては偶然の進化でしかない。人生も同じようなもので、過去の偶然の選択が積み重なりが、現在から振り返ると必然に見える。つまりなにを選択しようとも将来から見ると必然に見えるわけで、現時点では、なにが正解というわけではないことがわかる。

それから、過去の判断をくつがえす判断をすることに抵抗を感じる人がいる。けれども状況はどんどん変わっていくのだ。過去とは違う判断をしたからといって過去の判断を否定したことにはならない。過去の判断よりも現在の判断のほうが常に価値があるのだと思う。言ってることが前と違うと指摘されても構わない。世界は変わっていくのだから、言っていることも変わっていくのは当然だ。逆に、同じことを言い続けていると、大丈夫だろうかと不安になる。

なにを選択したとしても正解でも不正解でもないのだから、ノリと直感で気軽に選べばいいのだけど、どうしても選べないときはある。僕はそんなときのために2つの基準を用意している。「迷ったら勇気のいるほうを選ぶ」と「よりおもしろいほうを選ぶ」というものだ。人間はチャレンジの結果にに関わらず、チャレンジしたこと自体に満足感を覚えるものだと思う。勇気のいるほうを選ぶということはチャレンジするということなので、結果に関わらずチャレンジしたことに対する満足感を得られる。一方、おもしろいほうというのは人によっては違う基準でもよくて、稼げるほうだったり成長できるほうだったり、なんでもいいのだけど、ひとつのものさしを持っておけば選択するときの迷いが少なくなる。結局は正解がないので、他人ではなく自分のものさしで判断するほうが納得感があるんじゃないかと思う。

補足をしておくと、僕はチャレンジや成長は必要ないと考えている。満足感を得るための手段として使うというのがポイントだ。判断を誤ったと感じたときに、後悔を軽減するものとして「チャレンジしたという事実」や「成長したという事実」を使うという手があるにすぎない。判断を誤ったと感じても、誤った判断というのは存在しないし、あとからの行動でリカバーできる。基本的には、ノリと直感だけでじゅうぶんだ。それでも自信がないならコインを投げて決めればいい。

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