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甲子園の心を求めて【都立東大和高校】

ここ数年は「都立高校」の活躍が輝かしい。
”優勝”という切符こそなかなか掴め切れてはいないが、かつては太刀打ちできなかった強豪私立との壁を超えてきている。

最もベスト8以上まで進めば「都立の星」と騒がれ、注目を浴びていたのも昔。近年では「小山台」「城東」「日野」が都立の強豪を代表するように、私学との差はわずかなものとなっている。

そして歴史の中、都立高校が甲子園の土を踏んだ回数は5度。

1980年に都立高校で初めて「国立」高校が聖地へ躍り出た。

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その後、1999年、2001年に「城東」。

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そしてその2年後の2003年に「雪谷」。

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2014年の春の選抜で21世紀枠として「小山台」

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いずれも甲子園で勝利を挙げることは出来なかったが、果敢に挑み当時の甲子園大会では強く印象を残した。

それでも、都立が何十年とかけ、着実に力をつけ始めた所以がとある高校にある。

それは”元祖都立の星”と呼ばれた「都立東大和高校」である。

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今なお後援会を始め、多くのファンが存在する。
ここ数年はなかなか納得ができる成績を残せてはおらず、西東京の中堅校に歯痒く甘んじてはいるが、かつての好成績と、築き上げた歴史と伝統に再び応えるべく底力は非常に高い。

そしてなぜ同校が都立の星と呼ばれるようになったのか、それはまだ都立高校が甲子園出場どころか、私学に太刀打ちすら出来なかった古く昭和の時代。

後に東京高校野球連盟の理事としても活躍し、「全員野球」という言葉を考案。

教え子と共に海外青年協力隊として「ペルー」にて野球の発展に尽力する他、多くの指導者を輩出した名将「佐藤道輔」監督が赴任する。

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1978年の春季東京都大会で快進撃を続け、見事「準優勝」を果たし関東大会へ出場を果たし、大きな話題を呼んだ。

そして同年の夏の大会でも確かな実力で勝ち進み、決勝戦に進出。
惜しくも「日大二高」に敗れたが「準優勝」という輝かしい実績を残したのだ。

「この都立校は、いつか本当に甲子園に行くぞ」

当時の東京高校野球ファンたちはそう言い、期待を覚えていた。

そこから2年後の1980年に国立が念願の甲子園出場を果たす。
次こそはと東大和は息を荒げ、1985年に再び決勝まで勝ち進むが惜しくも敗れ2度目の準優勝を遂げる。

十二分に「東大和」の存在を知らしめるもその後は甲子園はおろか、決勝の舞台にも立てずにいた。

名将「佐藤道輔監督の退任後も、その意思と想いは引き継ぎながらも次第に低迷し春季、秋季の東京都大会に出られない時代を迎える。

しかし2010年に東大和は再び息を吹き返すきっかけを作る。

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”全体としてひとつにまとまっていながらも、その中で一人ひとりが自己主張をしている、最高のランニング”と称し原点とも言われている全員の足並みがそろって、地鳴りのような声を出しながらのランニングのこだわり、そしてブロック予選の会場校としての配慮への徹底ぶり。
4.3メートルのリード幅を知り、そこからのスタート&帰塁の感覚をい鍛える「コンマ1秒単位」の走塁練習の徹底。

2016年の春季大会では、強豪「帝京」を相手に1歩も退かぬ戦いを繰り広げ、9−10と1点差の好ゲームを展開し堂々と戦いを見せた。
そして久方ぶりのベスト16の進出、見事夏のシード権を勝ち取った。

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東大和高校の伝統。そして想いは今もなお途切れてはいない。
そして近年の都立の躍進の原点でもある同校の伝統は今なお続いている。

絶えず追い求めるのは甲子園の心。
届きかけた聖地は決して遠くはないことを再び魅せてくれるはずである。

〈私は、あの華やかな舞台の甲子園だけでなく、もっと本当の意味での甲子園像が、ほかにあるような気がしてならないのである。全国に2600を越える高校野球のチームの多くは、甲子園をはるかに遠くにして敗れ去って行く。しかし地方予選の1回戦に敗れていったチームの中にも真の甲子園の心を求めたチームがあるはずではないのだろうか〉

【東大和高校】
●所在地/〒207-0015 東京都東大和市中央三丁目945番地
●設立/1971年


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