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#12 私の「暇と退屈の倫理学」

この文章は夏休みの課題のために書いたもの。

私はとあることをきっかけに気候変動、労働、飢餓、などの様々な社会問題を引き起こしている直線的な大量生産大量消費によって成り立つ社会について疑問を持っている。なぜなら、誰もが客観的な視点に立つと地球や生態系に悪影響を与えるということを理解しているのにもかかわらず、その生活をやめるという決断には至ることができないからだ。この本を通して私の疑問について考えてみた。一般的な読書感想文とは異なる形式かもしれないが最後まで付き合っていただけると嬉しい。

消費社会の起源について考える前に、退屈と消費の関係について考える。退屈とは自分自身が自分にとって関心を持てるものになれていない状態を意味する。「これこそが私のなすべきことだ」と言える何かを探している。消費を促進する資本主義社会の拡大によって人間はより退屈を感じるようになった。なぜなら、消費という行動は決して人々を満たすことはないからである。例えば、次々と流行りのカフェに行くJK達。彼女達はカフェに行きたいのではなく、その様子をインスタグラムに投稿し、人生充実してると見る人に思わせることを目的としている。このように観念を消費する行為は私たちを永遠に満足させることはない。消費社会は満たされないという退屈を、戦略的に生み出しているのである。一方で、必要を超えてものを受け取る「浪費」は、人々を満足させる。すなわち浪費はどこかで限界に達する。しかし、現代社会において消費と浪費を使い分けることは非常に難しい。なぜなら浪費しようとすると必然的に消費に繋がってしまうからだ。ここで一つ例を挙げよう。食べ放題の帰り道、あなたはとても満足している。必要以上の量を食べることによって、物理的にも心理的にも満たされているからである。しかし、その行為を「食べ放題に行った。」という観念としてカウントしてしまうと再び他の食べ放題サービスを利用したくなってしまう。これが消費と浪費の違いであり、両者の関係である。

ではどうすれば退屈せずに過ごすことができるのだろうか。概念を消費しているときの私たちはもの一つ一つを楽しめていない。一方で、楽しんでいる間は一つのことに没頭し、退屈を感じている時間はない。つまり、自分を満たし、贅沢を取り戻す方法を各自が模索し、楽しむための訓練をしていく必要がある。なぜなら、ネットショッピングやカフェ巡り、旅行などの観念消費のゲームでは満足することができないからだ。それらはアートや古典文学などといった何か特別なことである必要はない。衣食住などの日常的な楽しみの中にも贅沢がある。楽しめるようになると、次は考えるようになる。そこまできたらもう退屈なんて怖くない。終わりのない消費ゲームのプレイヤーになってしまう前に、浪費に焦点を当て自分が没頭できることを見つけ出す必要がある。

この本の題名を聞いた時、正直あまりワクワクしなかった。読んでいる最中も、ひたすらに長く感じ、その上内容も複雑で何度も辞めようかと思った。しかし、自分の中で内容を理解しようと試みていると、私の中にあった疑問との接点や生き方についてヒントを与える書であるということに気づいた。「簡単に手に入れたものは簡単に失う」という言葉があるように本書と向き合った時間は私にとって忘れ難いものになるだろう。社会の中にある課題においても、はっきりとした答えがあるわけではない。情報の奴隷になるのではなく自分なりの答えも見つけようと向き合い、思考し続ける必要がある。

無断転載などはもちろん禁止ね
そんな人いないと思うけど


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