見出し画像

コロナ禍とはなんだったのか。

先日両親に会ったら、まだマスクを着用していた。感染予防だそうだ。いまだにコロナを警戒している人がいる一方で、何事もなかったかのように日常を取り戻している人もいる。私はどちらでもなく、むしろその感覚の違いに気味悪さを感じてしまう。

コロナに対しては誰とも共感できぬままここまで来てしまった。約3年かけて開き続ける大衆との「意識の差」に愕然とし、途切れたコロナ以前の感覚は修復できぬままである。どうも僅かに世界が本軸から別次元に平行移動したかのような不自然さがまとわりつく。世界のフェーズが変わったのは、私が知る限り2000年、2011年以来だ。

2011年東日本大震災後の数ヶ月、人々は福島第一原子力発電所事故に関して政府に不信感を募らせていたはずである。「言っていることが正しいのかどうか分からない」と不安に駆られたはずである。それはコロナが蔓延し「緊急事態宣言」を安倍元首相が発出した時も同じだ。ところが、恐ろしいことに、どちらもその「不安」は解消されないまま記憶の奥のほうに仕舞い込まれそうになっている。

震災の「当日」に関しては語られることが多く、直接被災していない地域でも、混乱の記憶を整理するための心の修復作業は無意識に行われてきた。しかしコロナ禍はあまりにも「語られること」が少なく、喪の作業はほとんど機能していない。それほど人々の心にとって軽症の出来事だったのだろうか。コロナに罹ったことを悪く噂されたり、東京に住む人が地方に行くと車を傷つけられたり、買い物した商品さえも消毒しないといけないような生活が、「外傷」にならないはずがないと私は思う。コロナが原因でなくても、外出を制限されたせいで足腰が弱ったり精神的に参って亡くなってしまった高齢者たちが身近にいる。やはり遺された者には後悔が残る。ワクチンを打つことが「おもいやり」とされる広告の異常さに、大衆は今何を思うのだろうか。

「コロナに罹ったこと」も「ワクチンをうたないこと」もタブー視され公には言いづらく、「みんながしているから」という圧力はマスク生活を長引かせた。コロナを巡る「違和感」は「語らないことで身を守る」習慣を根付かせてしまったように思う。コロナ禍とは何だったのか。振り返って声に出すのは、今が良いタイミングだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?