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男惚れする格好いい男たち㊾ vol.534



俺がこの歳まで積み上げた人生や読書感から来る、格好いい人間像について語ってみたい。

井伊直弼編の2回目!

幕政を批判する向きをことごとく粛清していくこの男。

何百年に一度の権力を握った者の精神の飛躍は、それこそぶっ飛んでいる。

血の粛清。

今の北朝鮮の金正恩の如くである。

一度異端を殺し始めると、とめどもなく暗殺の魔力に手を染めていく。

己が万能であると過信していく。

些細なことを理由に異端を滅ぼしていく男。

その殺しの理由としての些細さは、きっと周りに戦々恐々とした空気を作り出し、この男の機嫌をちょっとでも損ねた人間は、自分の身に降りかかる難を予測し、窮鼠猫を噛む行動に出るかもしれない。

そして、一度その反逆の恐怖に怯え始めたら、男はさらなる恐怖政治の泥沼にはまっていくであろう。

だが、君主以外に「気」を持たない北の人間に、君主を殺そうという気概のある人間が現れるのか。

日本においてはそうした男たちが群がり出た。

そうした男たちはほとんど武士の中から輩出している。

それらのほとんどが飲まず食わずの下級武士の出身である。

武士道。

それはこうした自分の命を紙くずほどにも思わない、剣によって、精神の緊張と美を体現しようとした者たちの世界である。

まさに世界に誇るべき精神の巨嶽。

これあるが故に、我が国は某北とは明らかに違う。

幕末、多くの武士が剣術を学んだ。

剣というものが、武士道の底流をなし、男の本懐を形作っている。

武士の剣は、剣というものについて、考え考え抜いてきた、義と理と法がその背景にある。

こうした気概を持たぬ人民によって成り立つ国家に、残虐な君主を退ける術はきっと存在しないのであろう。

だが、日本ではそうではない。

桜田十八烈士と言われる。

安政7年3月3日(1860年3月24日)。

江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃した。

いわゆる桜田門外の変である。

今の皇居の桜田門の門外に、大老井伊直弼を殺めるべく、浪士たちがなりを潜める。

この日、明け方から季節外れの雪模様でもあり、一時は大きな牡丹雪が盛んに降り、辺りは真っ白になった。

襲撃者たちが現地へ着いた頃、既に沿道には江戸町民らが武鑑片手に、登城していく大名行列を見物していた。

この日いわゆる雛祭りのため、在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっていた。

襲撃者たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待つ。

午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響き、それを合図に諸侯が行列をなし桜田門をくぐって行く。

尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、直弼擁する彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。

彦根藩邸から桜田門まではおよそ300メートルから400メートル。

彦根藩の行列は総勢60人ほどである。

折しも雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけている。

ゆえにとっさの迎撃に出難く、それは限りなく襲撃側に有利な状況だったといえる。

また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、彦根藩行列の警護は極めて薄い。

加えて直弼は倨傲な男であった。

予め不穏な者ありとの情報が届いていたが、護衛の強化は己が反対派に恐れをなし動揺したとの批判を招くと思い、直弼は警護の薄いことを豪胆にも放置した。

そうした隙をついて襲撃の巷が繰り広げられる。

まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づく。

彦根藩士・日下部三郎右衛門はこれを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかった為、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏す。

森が護衛の注意を前方に引きつけ、水戸浪士・黒澤忠三郎が合図のピストルを駕籠めがけてぶっ放す。

これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始された。

発射された弾丸によって、直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、修錬した居合を発揮すべくもなく動けなくなる。

この惨劇を目の当たりにし、彦根藩士の多くは算を乱して遁走してしまう。

残る十数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置されることになる。

こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、結果として襲撃者側も被害が拡大。

その中でも二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防ぐ。

同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせる。

そうした撃剣の間隙を縫うように、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられていく。

先ず、稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりしながら駕籠を刺し抜く。

続いて広岡、海後が続けざまに駕籠を突き刺す。

この間、稲田は河西忠左衛門の反撃で討ち死にし、河西も遂に斃れた。そして、有村が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出す。

直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとする。

だが、有村が発した薬丸自顕流の猿叫とともに振り下ろされた斬鉄によって、直弼は斬首された。

襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分の出来事である。

こうして日本史上類がない大弾圧の幕は降ろされた。

これにより、日本の歴史はこれ以降混乱を極めていく。

幕府を牛耳る天下の大老が無惨にも討ち取られた瞬間、世間に、幕府何するものぞ!という意識を植え付けた。

幕末の騒乱はまさにここから始まっていくのである。(終)

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