誤って伝わった新自由主義

日本式新自由主義とか言われるけど、全然違うと思っている。

日本は基本的人権も民主主義も、私の暮らした西ヨーロッパと、なんだか解釈が異なる。※あくまで私の体感でしかないのであしからず。

それは歴史的に覇権国として主導を取って来た西欧諸国やアメリカにて使われる「共通する文字」を「持たない民族」=「すべてを翻訳する必要がある民族」の宿命なのかもしれない。

英語とラテン語系は系譜も文法も異なるとは言え、私と米国人とで「いっせーのーせ!」でラテン語を学ぶ際に、スタートラインは同じ、とは言ってほしくないとつくづく思い知らされる。
英語とラテン語、なんとなく、つながるのだ。
特に、法律や生物、政治関連の言葉は割と類推できる。
martyrとかcontentとかsalvationとか、見ればなんとなく意味が類推できるというのは羨ましいと言えば羨ましい。

さて、neoliberalismも、日本人が誤解しているような気がする言葉だ。
新自由主義。字面だけ見れば、爽やかなイメージすら感じる。

しかし、neoなliberareなismoである。これを、英語、ラテン語話者は、感覚で捕えられる訳だ。もちろん英語とラテン語は異なる言語であるし今に至る言語の歴史を無視してはならないし、逆に感覚で捕えたからこそ誤ることもあるだろう。freedomとliberalはラテン語では厳密に分かれていないと思う。
でも、それを加味した上でも、日本語話者はまずは感覚に落とし込めるまで繰り返し言語を学ばねばならないという、「スタートラインに立つまでの距離」を思う。

まぁ言葉遊びはさて置き、

新自由主義。

ものすごい高学歴のキャリア官僚はもちろん誤解なんてしていなくて彼らの掌でそのように我々が転がされ上手く誘導されているだけだろうとは思うが(そう信じたいが)、あと、アメリカに追従し過ぎて新自由主義を迫られ脅されているだけなのかもしれないが、兎にも角にも一般市民は何か誤解して権力者の都合の良いように踊らされている、ように感じる。

新しい自由な主義なんかじゃない。ナポレオンもホッブスも丸山眞男も抜かして政治的経済的自由を語れない。

市民はこの流れに全力で対抗しなければならなかったのだ。アメリカに新自由主義が起こった歴史を無視して、形式だけ輸入しては上手くいくどころか害悪なのは言うまでもない。
でも、ナイーブなのかエピキュリアンなのか、どこ吹く風の市民はアゴラを持たないまま、中央政府のほったらかし政策にされるがまま、今に至っている。

これは権力者VS市民といったシンプルな話でもない。

権力者(と金銭で繋がる愉快な仲間たち)VS「"目の前の仕事を一所懸命にやるだけだ。社会のことは分からん(またはめんどくさい、もしくは政治に口を出すのはイカさない)"的な社会風潮」であるのではないかと疑っている。

私の周りによく現れる「目の前の仕事を淡々と熟す」人たち。これは何も私の周りだけではなく、日本人によく見られる考えだと思っている。

自分は難しいことはわからない。ただ目の前にある仕事を精一杯やるだけだ

のような言説はよく見かけることはないだろうか。

確かに目の前の仕事を精一杯務め上げることは美徳かもしれないが、この言葉を口にする人が「政治とか難しいことは分からないから」と言う気持ちと抱き合わせで語る時は、要注意である。

なぜか。

🔸

個別の仕事に精を出して、内向きに形を作って行き技術が広まらない上、非効率で生産性が低い日本的社会と、たくさんのルーツを持つ人たちをまとめるためになるべく効率よく合理的にこなしていく欧米(特に北米)。

そもそも英語とラテン語を学ぶと、アメリカ英語のビジネスに於ける言語的合理性は驚かされる。簡潔・誤解されにくい・広く伝えやすい。聞いてはいたが、実際に腹に落ちるとそれは強烈なアハ体験となった。
言語からして合理的なアメリカとはお国柄が全く異なる。彼らには新自由主義に至るまでの道のりがあった。そうなるべくしてなったのだ。というか、彼らも最初から結果を見据えていた訳じゃなく、結果を振り返ってそれに命名しただけだ。「新自由主義」と。

日本は他国の政策を上べだけ真似して行くが、その道程や背景を丸無視して形から入るから上手くいかない。こういうハイコンテクスト社会では、アメリカ式新自由主義は馴染まない。なのに、いつからかすっかり感化されている。

日本式経営にも良いところはあったのだ。もちろん1960年代前後あたりの猛烈な高度経済成長については私は何度も「運が良かっただけ」と繰り返し日記でも呟いていて、あの時代の日本式働き方全てを肯定していない(どころか、あまり好みではない)。年功序列も終身雇用も、humanrightsとdignityを旗印に掲げる私にとっては、ある面では真反対の働き方とも言える。

でも、かと言ってその後に怒涛のように訪れる新自由主義(誤った)は、もっと悪質だ。
新しいコロニアリズムだとも思っている。もちろんアメリカが宗主国で日本が植民地という訳だが。

話が逸れたが、

日本人にはアメリカ式を上部だけ真似しても所詮うまくいかないのだ。

例えば第二次大戦時も日本軍は現場の運用能力や規律頼りなのに対し、アメリカ軍はどんな馬鹿でも60点の仕事ができる兵器とルール作りをしていたという話があるし、着物も着付け教室に通わねば着られないのに対し、洋服はそうではない。個々人の努力や能力に依存しがちな風潮というものはいつからか確かに存在した(している)。

お寿司屋さん修行は以前「見て盗め」式の伝統があったと伝え聴く。
情報公開して多数の人間と資本を引き込むことで自分自身の利益にも繋げようというスタンスのアメリカ(と一口には括れないが)。

物事の進み方は速度と規模感で言えばどちらが早く広いか、一目瞭然である。

電話、インフラなどの設計図、ソフトウェア開発の世界でも差が開くのも自明であり、個人での精進や努力、切磋琢磨という美徳に縛られすぎて他人とのノウハウ共有や標準化による利益の創出という観点が欠如してると指摘した人がいたが、まさにその通り。家電やコンピュータ半導体分野で遥か後進となってしまったのには、そうなるだけの確固たる理由がある。

携帯電話もだが、私はあの「改札機」に、文明が滅びる時のあのえも言われぬ甘美な哀愁を感じずにはいられない。その昔、あのスピードで切符を改札の向こうに出すシステムに幼い私はワクワクした。日本のシステムはすごい!と。券売機も、素晴らしい。
そんなことを内向きに研鑽している内に世界は、切符不要なシステムを生み出し世界中にトレンドをばら撒いたと言うわけだ。

日本が主導で世界に魁て何かの構築を行うことがかつても今もなかったが、それは常に「目の前の仕事や物事など、ひたすら研鑽を詰む」内向きの社会システムであったからというのが理由の一つではなかろうか。

それはまぁ良いとして、猿真似すらも最早、満足にできなくなっているのを感じるのは私だけではあるまい。

🔸

資質なんてそうそう変われるものではないし、変える必要もない。西欧が全てではない。外交努力の果てに我がの道を行けばよいのだが、いかんせんそれすらも苦手である。なんせ内向きだから。

日本人は元々、民主主義とは相性が良くないのかもしれない。新自由主義とも相性が悪いだけでなく。

とは言えこのまま指を咥えて私の子どもたちに人権と尊厳の著しく欠けた社会を残すわけには行かない。

🔸

自分の目の前の仕事を一所懸命こなす。
それは命題だ。
そして同時に、社会を構築していくためのアゴラを作って行かねば。
それは仕事とは分けて考えるべきだ。

目の前にいる自閉症児の放課後デイをしている人がもし政治に無関心であったなら、政治の巨大な力はあっさりと、弱い人、つまり全国、全世界の自閉症児の首を絞めに襲いかかってくる。その人が助けている以外の自閉症児を見殺しにしていると同義だ。
そしてそのうちその人が助けている目の前の人すらも必ず影響を受ける。悪い方にだ。

内向きに仕事に精を出すことと、社会を構築するためのアゴラで思い切り言論の場を作ること、政治が誤っていると感じたら声を出すことは、オルタナティブではない。

全部同時にこなしていく。

優しい大人とは、それができる人だ。怒るべき時に弱者のために怒れる人。今の日本人でそう言った意味での真の優しさを持った真の大人というのは果たしてどのくらいいるのだろう。

勇気を持ってアゴラに集いたい。そうして行くべきだ。21世紀のオトナなら。

そして、そうして行かなければ、目の前の助けたい人を助けられなくなるばかりか、

目の前にある一所懸命やっている「自分の仕事」さえも、そのうち自由にできなくなってしまう可能性だってある。

アゴラを衰退させてはならない。

出版界の人、アゴラを作り出せる可能性のある人たち、「良い本」を作っているだけでは、ダメなんだ。政治に声をあげていかなければ、本作りだってそのうちできなくなる。

政治資金事件 安倍派と二階派の会計責任者を在宅起訴で検討 自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる事件で、東京地検特捜部は安倍派と二階派の会計責任者について、派閥の政治資金収支報告書にうその記載をした政治資金規正法違反の罪で在宅起訴する方向で検討していることが関係者への取材でわかりました。

自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐっては、おととしまでの5年間で、安倍派「清和政策研究会」が6億円超、二階派「志帥会」が2億円を超えるパーティー収入を派閥の政治資金収支報告書に記載していなかった疑いがあり、東京地検特捜部が捜査を進めています。

関係者によりますと安倍派と二階派の会計責任者は、これまでの特捜部の任意の事情聴取に対し、いずれもパーティー収入の一部を収支報告書に記載していなかったことを認めているということです。

特捜部は安倍派と二階派の会計責任者について、派閥の収支報告書にうその記載をした政治資金規正法違反の罪で在宅起訴する方向で検討しているものとみられます。

一方、特捜部は松野・前官房長官らいわゆる安倍派「5人衆」と呼ばれる幹部や事務総長経験者などからも任意で事情を聴いてきましたが、安倍派の会計責任者との共謀は認められないとして立件を見送る方向で調整しているものとみられます。

NHKnewsWEB2024/1/13

声を上げよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?