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思いを伝える

言葉は大切にしている。
特に、伝えたいことがあり、誰か伝えたい人がいる場合。

てにをは、単語の取捨選択はもちろんのこと、ネガティブ/ポジティブ言い換えられるならポジティブを選ぶし、強く言うべきところ、オブラートに包むところなどを場面により使い分ける。

何より、伝える相手を考えて言葉を構築する。可能な限り。

伝える相手が、初対面に近い場合は、言葉を構築する際のヒントとして、視覚を頼ったものが多い。
見た目は大事。悔しいけれど。

例えば、

茂木敏充みたいな、いや失礼、反社みたいな見た目の人が話し相手だと、ちょっと怯んで言葉を選ぶ(もしくは、言葉を控える)だろうし、そこまで行かずとも、身長の高い人、筋骨隆々の人から受けるえもいわれぬ圧迫感、これも情報の一つ。

(逆に言えば、私のようなさして取り柄が見た目に無い小柄な女性の場合の、先方からのジャッジによる「いきなりタメ口」「話を聞いてくれない」「こちらの話を遮る」など攻撃をまま受けるが、あまり気持ちの良いものではない。まぁ慣れたけど、いや、慣れないな)

自分語りはさて置き、

見た目情報としては、体躯だけでなく、目の焦点が合っていないとか、敢えて視線を合わせないとか、その辺りも情報になる。

また、明らかに子どもの見た目の場合の身長(小学生と思って話していたら大きな幼稚園児だった、とかやらかしてしまう)、おじさまの恰幅の良さ、筋肉のつき具合、メガネの有無、胸の大きさなどなど、人が思いの外、視覚で得た情報を自分の中でバイアスかけて、相手と会話していることは、枚挙にいとまがない。

また、臭覚も大切だ。
アルコールを浴びるほど飲んだ次の日の何とも言えない息の臭さ、タバコ臭が染み付いている臭さ、香水のキツさ、そういったことを相手から感じる時も、受け手の情報としてバイアスをかける理由に十分なる。

それから、五感だけでない。例えば、やたらとため息を吐く、とか、言葉を溜める、とか、声が面白いとか、変な語尾を付けるとか、貧乏ゆすりがすごいとか、そんなサブ情報も結構、判断材料になったりする。

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リアルで対話するということ。

相手のいろいろな身なりや行動も含めた多彩な情報を言葉に付け足して、受け手なりに理解するのと、

実際に口から出た言葉を文字起こしする、それを読むだけなのとでは、

雲泥の差がある。

メールでは、細かいことが伝わらない、と言われるが、まさしくそれを証明している。メールで送ると、なんてことない会話もトラブルになりやすいとも言う。実際私も経験がある。

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こんなことを思うきっかけは、聾の方のイベントの時に、手話を少し習ったことだった。

手話は、手の動きだけで会話をしていると思い込んでいたが、顔の表情や口元、上半身、へたすれば全身までも、立派に意味を持っていて、重要であり言語の一部であると。
面白かった。

手の動きはつまり言葉。言葉だけでは伝わらない、正確に言えば、言葉をただ並べるより、深く伝えることができるのだ。

そして思った。

そこにあるのは、合理性とは少し遠いものだと。

Netflixでドラマや映画を1.5倍速して観たり、セリフのないところを飛ばしたり、そういうことでは得られない、複雑な言語情報が、背後にあるのだと。

省略したり、役に立つところだけを取り出したりすることは、ある意味、不可能と言ってもよいかもしれない。

他人に本気で何かを伝えたかったら、手軽にとか最小限で、とか、とにかく「めんどくさい」という感覚とは正反対でいる覚悟が必要である。

人に何かを伝えるというのは、もしかしたら気が遠くなるほどの辛抱強さが必要なのかもしれない。

そして、メールより、電話。電話より、オンライン会議。オンライン会議よりも、リアル会議。

やはり、同じ空気を吸いながら、物理的にお隣で話した方が、伝わりやすいのは、本当だ。合理的、要領良く、最小限に、などという言葉の真裏にある概念である。

某98代目首相が、よく口にした「説明責任を果たしていく」という言葉。
説明責任を果たして行くとは言うが、説明はされた覚えがない。そうすると「責任」は一体どこに行ってしまったんだろう?

アカウンタビリティという言葉を捻じ曲げてしまった。

議会制民主主義とは、とにかく辛抱強く、意見の違う人たちが最大の譲歩をしながら落とし所を探るのと同意と言ってもよい。
そんな粘り強い交渉力と、情熱と、丁寧さに欠ける98代目首相ではあったし、彼とその愉快な仲間たちは、ステークホルダーを非常に狭義に捉えていたと思われる。本来なら、日本に住む人すべてでなければならないのに。

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ところで、なぜ、映画やドラマよりも、小説を読む方がハードルが高いと感じるかと言うと、そう、言葉だけで伝えるメディアであるからに他ならない。

全てを、プロデュースする必要がある。

本は、例えてみれば脚本のようなもの。
それだけを元に、脚本以外の全てを、読み手が背負わなくては、素晴らしさが伝わらない。

演出、配役、演技指導、音楽、カメラ、照明、音響、美術、プロデューサー、装飾、大道具小道具、衣装、編集、コンポジション、エフェクト、エディターなどなどなど…
それら、全てである。よく考えたら、本を読むというのは壮大な骨折れ事なのかもしれぬ。

だからこそ、私にとって物語は面白いのである。私が脚本に沿って自由に監督して好みの作品に仕上げられるのだから。
解釈が間違いだと言われようと構わない。私は私なりの物語を紡ぐ。作家先生には失礼だが。

ある意味、国語の記述式試験、特に「作者の考えを述べよ」的な試験問題なんてのは、愚の骨頂なのかもしれぬ。福岡伸一さんが、ご自身の著作が入試問題に使用され、その回答に悩んだ、なんて話も聞く。ある程度の理解があれば、それで良し。書取りや読み書きは必須だが、そんなんで良いのではないかな。点数で図るものではない。

逆に、作者の思いを述べよ的な問いに、もし統一された回答を提出されたら、私にはそちらの方がホラーより怖い。最早、人間じゃない。思考回路は、人間に最後まで残された権利であり、人間を人間たらしめるものなのだ。

また、作家側には、どんなによい脚本を書いたところで、最後は読み手の演出によってしまうのだ、ということは、覚悟する構えが必要と思う。
(名著というのは、なるほど、演出の力をそれほど必要としない、名脚本である、とも言えまいか。)

作家の書くものが脚本止まりだ、なんて言ったら、作家は怒ることだろう。だけど、これは宿命だ。物語を、100人が同じように読むなんて、人間が人間である限り不可能なのだ。作家は、自分の思う通りに読んでほしければ、取り扱い説明書でも書くといい。法律書ですら、何通りにも解釈可能なのだ。

作家が、読者の読み方を「それは違う」というのは、傲慢だなと思う。

物語は、読み手が自由に読める。

絵本は、またちょっと違うかもしれない。カメラ、美術、役者や道具たちの力は借りている。
しかし、全体の監督はやはり、自分の頭だ。

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ただ、読み手にただ任せていて良いかと言うと、そうも断言できないのが辛いところ。作者の作品に対する思いなんて、本当は聞きたくないものなんだけど、ある程度補足をするのはアリかなとも思う。あまりにも市場に任せていると、徐々におかしな方向に行きかねない。

マキャベッリはどうも民主主義陣営からは毛虫みたいに見られているみたいだが、彼の真意は分からないにせよ、あまりにも読み間違いされてないか?ちょいかわいそうになるレベル。修正したくなる。

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特にこのつぶやきのオチはないのだけれど、

人に何か伝える際に、もちろん多少のコツの差はあれども、「意外と伝わっていない」と言うことを覚悟した上で、言語活動を行う、と言うのは、人生一貫している。すると、あまりハレーションは起きないものだ。

そして、本気で伝えたい場合は、死物狂いで、丁寧に、時間をかける必要があると言うことも、改めて何度でも、口にして行きたい。

なぜなら、国家中枢部の権力者から、一市民である私に、全くと言って良いほど伝わって来ていないからである。国会審議にしろ、記者会見にせよ、ぶら下がりでも、選挙前のがなり立てる系の活動でも、Twitterなど個人的な発信にせよ、まぁそれくらいしか一市井人の私にはアクセス手段はないのだが、驚くほど空虚である。

あの人たちは、「伝えよう」とは思っていないのだろうから、致し方ないのだが、政治家を選挙で選ぶ際に、もはや、政策の内容ではなく、「何かを伝えようと思っている人をまず選ぶ」だなんて、愕然とする政治レベルの低さである国の国民であるのが、ひたすら悲しい。

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