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肉のない肉じゃが

藝大、学費は上がって練習室のピアノは一部撤去されて、秋元康とかさだまさしとかを客員教授として雇って、やけにおしゃれな食堂ができて(ビミョーに高い)
生協が消えて図書館は購入費削減、というのがここ最近の様子

というツイートを見かけた。

なぜか、思い出す。

80〜90年代の芸能周りは、私を相当失望させた。
夕やけニャンニャンも、ジャニーズも、歌の下手なアイドルも、イヤだった。吉本も好きじゃなかった。(キョンキョンは、素晴らしい人物で私は今に至るまで大尊敬しているのだけれど、歌は下手だ。)
歌が下手なのも、pedophilia文化も嫌だった。(ちなみに今でもpedophiliaは私はNG。)

中学、高校辺りの友だちは、ほとんどがそのどれかを好んでいた。話を合わせるためにどれほど苦労をしたか。あまり良い思い出ではない。

今で言う「推し」のない人生。

それはさて置き、幼い私は自分に自信がなくて、または発展途上中だからあまり自分を型に入れたくなくて、友だちが聴いている曲を共有したりして、嫌いなものでも単純にはブロックはせず、柔軟に取り入れて思考を整えて行ったのは間違いない。

「この歌手に違和感を感じるのは、自分の感性の方を疑うべきでは?」と、まず自分を疑うことからやっていた。最初から拒絶するのではなく、平等に聴いて判断するだけの力をつけようと、頑張って、耐えて、宮沢りえとマリア・カラスとを、聴き比べた。

その時期、90年代、日本経済は世界を席巻していて、日々、新聞で読むニュースは、威勢の良いものばかりで、これからどんどん発展して行くと思えることばかりだった。バブルは弾けていても、治安は改善されて、科学は進み、人々の人権意識も向上し、東京は世界都市になり、ニューヨークの不動産を日本企業が買っていて、名画が日本に集まって来ていて、三井物産は着手していたし、普通預金口座に預けておけば利子がついた。
東京が発信する情報は世界の中心なのだと、思い込んでいた。だから、そんな歌の下手な歌手も、多様性という面では良いのかもしれない、などと思っていた。

有象無象のチリのような芸能人(能もない)たちが大手を振って活躍したのは、文化の退廃だと思っていたが、同時に、いろんな人にチャンスが与えられる、文化のトリクルダウンでもあって、悪いことばかりではなかったなと、今は思うし、文化資本のない家庭に育った人に救いの手を差し伸べると言う点では素晴らしい試みだが、それならば、教育の段階での措置の方に目が向くべきだ。
やっぱり、芸能で表舞台に立つのは能のある人がやった方が、社会的にも、また、中期的(長期的)視点からも、良いのではないのかなと。

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その後、アメリカから初め、世界中をバックパックで旅して、さらに生活の拠点をイタリアに移してからは、
普通に生活していたら先進国諸国の中で、日本文化なんて微塵も感じられないことに気づく。

漫画の姿はちょっと見た。くらいか?でもあくまでもサブカルチャー、GEEK向けで、一般的には、感じることはなかった。

私は海外でもテレビを見ないから、もしかしたら私の知らないところで、ものすごい数の日本人が活躍しているのかもしれない。

でもとりあえず、歌の下手な歌手の歌はどこからも聞こえてこなかった。グラミー賞も、誰が取るかはさておき、歌が下手な人はかつていなかった。MTVも、ずっと垂れ流しで聴いていても、歌が下手な人は見なかった。

エンターテイメント水準が高い。

果たして日本。
2003年に帰国してすぐ目についたのはAKB。
踊りも下手だが歌も下手。秋元康と聞いてさらにゲンナリ。まだ芸能界で生きていたのか。と。自浄できないのかと。
こういうゲンナリを感じたくなくてテレビを見ないのに、そんな私の目にもつくのだから、すごいものだ。街中のデジタルサイネージやら、友人知人との会話からなのか。

なぜこんな浅はかな人が人気があるのか。
上手い人の歌を、みんな、聞きたく無いか?
涙が溢れるほどの、心に沁みる歌声を、聴きたくないか?
AKBは可愛いけれど、もっと可愛くて、踊りもうまくて、歌が上手い人はわんさかいるだろう?そんなに人材が枯渇しているのか、日本は?そうは思えない。探せばいるはずだ。

歌の下手な歌手は、肉のない肉じゃがみたいなものだ。いや、もしかして、肉とじゃがいもと砂糖と醤油のない、肉じゃが?

私には、秋元康系を好む人の気持ちは本当に分からないが、なんとなく考える。

①芸に秀でていない人を、自分と同等または劣ったものとして見ることで自己肯定感を上げるまたは快感を得る
②芸能人は劣った存在である(あってほしい)という欲求(できない人が可愛げがある)
③世界水準を知らない井の中の蛙

秋元康のキャリアを考えるに、自己肯定感の低い日本社会、またインセルたちへの視線をビジネスに絡め取る狙いかと。そして、彼はそう言うことについては天才的に上手い。一般大衆の中でも拗らせている人たちをターゲットに、鼓舞してうねりを起こすやり方は。

本当に軽蔑する。

藝大で、彼が何を教えると言うのか。
時代が良かっただけの人に。
未来を見据えて文化を醸成などできない、その場しのぎの人に。
学生たちはどうか、反面教師として、ぜひ、捉えてほしい。

それはさて置き、③はかなり根が深い問題では無いかと思う。worldwidewebがこれだけ広まっている中で、驚異的な自発的鎖国を続けている日本。
海外の文化に触れる機会が圧倒的に少ない。
国民の圧倒的多数は、世界レベルを知らないまま、瑣末な文化にしか触れずに生を終えて行く。東京に住んでいるとあまり感じないが、地方には美術館、博物館がすぐ行ける位置にある人が果たしてどのくらいいるのだろう。書店はもとより、図書館すら身近にない地域もあるだろう。

この閉じた空間内でのコンセンサスを取って行けば良いのだから、トップに躍り出るのも比較的簡単だ。
そして、切磋琢磨の幅は広がらないまま、小さな文化として、世界に打って出ることもなく、流行を終えていくその連続。


建築も、料理も、書籍も、文化全体、生活家電やコンピュータや広告などビジネス全体にまで、何もかもが内向きにこじんまりしているから、イノベーションも起こらない。イノベーションは、多様な中からしか、生まれない。女性の声すら得られない2023年日本なのだから、お粗末なのも納得する。

車だって、すでに世界が目指しているところからこれだけ離されていたら、もう追いつけない可能性がある。

経済一流の時代は、内向きでも、向こうから揉手でやって来てくれたから良かったのだが、最早ジャパン・ナッシングの時代は、ただ置いてきぼりで、文化が衰退していくだけだ。

経済的アドバンテージも、すっかり無くなった今、日本文化にできることは、もうタコである自分の足を食べ続けるしかない。

++++++

2013年。

 日本・ASEAN特別首脳会議のガラディナー(晩さん会)が14日夜、東京・日比谷の帝国ホテルで行われ、EXILE、AKB48、w―inds.が安倍晋三首相ら11か国の首脳の前でパフォーマンスを披露した。
 ディナーには安倍首相夫妻や来日した10か国のASEAN首脳夫妻ら約200人が出席。首脳級の晩さん会で人気アーティストが歌うのは異例のことで、EXILEは代表曲「Rising Sun」で迫力のパフォーマンスを披露。AKB48は今年を代表する曲となった「恋するフォーチュンクッキー」で会場を沸かせた。
 日・ASEAN特別大使で、先月には同じメンバーを集めて音楽祭も成功させた俳優の杉良太郎(69)は「日本もやっとここまで文化を交えて政治、経済の友好関係を促進するようになったとうれしく思っています」と語った。
[2013/12/15-06:00 スポーツ報知]

これを聞いた時に、ゲンナリしたのが忘れられない。
世界に向かって何を晒してるんだろうと。
こんな猿芸で、世界をどうしようと思っているのだろうと。
安倍晋三氏はその先祖からの(脱税を含む)財力で、私のような凡人には考えられないような文化資本を持ち、世界の素晴らしい文化や、各界のトップクラスに触れ、あまつさえ本人に会ったりコーチをしてもらったりさえも容易な、夢のような環境だったはずだ。
私だったら、セントアンドリュースを貸切、好きなだけ大学院で勉強したり、世界中のオペラハウスを巡ったり、自分だけのオーケストラを作ったり、一年、なんの心配なくクルーザーで世界を一周したい(私の発想自体が庶民的で、我ながら可愛い)。
そんな恵まれた環境にいて、恐らく世界中のトップクラスの文化に触れていながら、影響を受けながら、

なぜ、AKBなどを、日本の文化として堂々とさらけ出せるその精神が信じられない。
それとも官僚が側近が、シンクタンクが能無しか。

AKBやEXILEが悪いわけではないけれど、これを見た海外の要人は

日本の総理大臣の文化レベルを疑っただろう。そして、軽蔑、また、「そう扱っていい」と見られることになるだろう。知識のない人は、先進国では蔑みの対象である。(まさか、ASEANだからこの程度にした、とかではなかろうな?)

古代から続く哲学の歴史を、
人類の闘争の歴史を、
建築の歴史を、

感じさせないその軽薄さ。

この国は赤ん坊の手を捻るような簡単な幼稚な国なのだと、海外の要人にアピールするのに持ってこいだっただろう。

どうってことない一コマだったに違いない。たぶんこのニュースをずっと引きずっているのは、私くらいかと思う。

しかし、国が予算を
吉本に
秋元康に
ジャニーズに
費やすのを見ると

ああ、このインスタントな、重厚さとは程遠い、知識も伝統も不要な、浅はかなものに、たっぷりお金を与えて、地位や権力も与えて、お墨付きを与えて、この国はどこまでうちに向かって行くのだろう。そしてこの人たちが全力で首相を応援するという仕組みで、一般大衆は見事に丸め込まれてしまった。

100歩譲って、

他にも同様に予算を割くならまだわかる。

日本の伝統芸能や、工芸や、教育に、予算を割くなら分かる。

しかし、この国は文化や教育と言った、「育成」にお金が出ないことは、昔から伝統だ。

なぜ、映画チケットがこんなに高いのか。
なぜ、書店が立ちいかない職業なのか。
なぜ、美術館はいつもこんなに見難いほど混んでしまうのか。
なぜ、図書館司書が減って行くのか。
なぜ、美術は数学より一段劣った教科に見えるのか。
なぜ、伝統工芸品の後継が出てこないか。
なぜ、博士課程を終えた人の就職先が少ないのか。
なぜ、小学校が35人クラスなのか。
なぜ、給食費が有料なのか。

これらは、世界のスタンダードでは全くない。
それどころか、正反対な国も様々見てきた。

この国の社会構造は、いかんせん、経済一流の時代に構築されたものが多いので、国民総中流であって初めて成り立つ仕組みだった。
そして、そんな状況は長くは続かないことは、私のような軽薄で知識のない人も予想していたくらいだから、東大を出てMITでPh.Dでも持ってるようなキャリア官僚や国際経済学者たちお歴々には、もちろん分かっていたことだろうに。

この国の構造は頑なに変わらない。

そんなことを思い出す、
藝大の今、のツイートだった。

人間は、お金を稼ぐ時よりも、使う時の方が人となりが現れると言う。

この国の予算配分について、考え続けて行きたい。

天然資源や有効なエネルギー政策もなく食糧自給率も低い国。

そんな国が持てる最後の砦、未来の鍵を握るのは「人材育成」しかないのだ。

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