知性とは

とある編集者さんが、とある作家への尊敬度を言葉で表そうとして

「この作家と同時代を生きている幸運」

と口にすれば

「夏目漱石ですね」

と口にせずとも連帯感が生まれる、

それがまさに「同じ言語で話す仲間」ということの証左でもあるが

それはたまたま同じようなものを学んでいただけだし、なんなら記憶力も不可欠なので、

私に言わせれば「たまたま」に過ぎない。(西欧にいた時は、ギリシャ神話や古代史などの知識は日常会話で役にはたったが)

その「たまたま」が数重なればそりゃあ嬉しいし、そのファインプレイがより親密になることを後押しすることは間違いない。

ポジティブに捉えていく人はよい。

でも、

そういうこと一つ一つを持って対話相手の知性があるかないかを試すような言動を繰り返す人は好きじゃない。

何を聞いても明確に答える猛者は確かに存在するが、それでもやはり人間、どんな高名な学者でも何もかもを知っている訳ではなく、(以前森羅万象をすべて担当している総理大臣が存在したようだが、都市伝説の類だろう)

誰もが自分の守備範囲を自分で無意識のうちに決めているのだから

その人が知っていることを「世の常識」と勝手に紐づけて、それを知らねば知性人に非ず、みたいな色眼鏡で見るのは本当に粋じゃない。

それが例えどんな「常識」と思われることであっても。生きるものはいつか死ぬ、くらいではないだろうか?常識と言ってもいいことは。

自分が森羅万象を掌る、そういうのって、所謂知性人じゃない人に多く見られる振る舞いな気もするよ。そこの君。

彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。

『三四郎』

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