外部記憶装置

最近本当に物覚えが良くない。
年のせいにはしたくないけど、本当に物覚えが良くない(大事なことなので2度言いました)。前日の献立も覚えてないし、その週のスケジュールも覚えていなかったりする。

とは言え、まるっきり記憶が消え去っているわけではない。メモを見れば大体思い出せる。何か一つ取っ掛かりがあると、堰を切ったように物事の記憶が溢れ出してくる。記憶が繋がるメカニズムというものは実に不思議で面白い。思い出すその瞬間まで、全く掴みどころがなくてあやふやな存在なのに、思い出した瞬間に急速に形を成して具現化する。行動を記したスケジュール帳や、折に触れてスマホで撮影した写真の数々は、僕にとって記憶のインデックスのようなものと言える。

では果たして、思い出せない記憶は記憶と呼べるのだろうか。二度と思い出せないのなら、それは記憶が消えてしまったということではないか。スケジュール帳や写真は僕の記憶そのものではないけれど、記憶を引っ張り出すためにインデックスが必要だというなら、そのインデックスもまた記憶の一部のはずだ。
僕は外食する時、ほとんど必ず写真を撮る。どこかに出掛けた時も、とりあえず何か一枚は撮る。流行りのインスタ映えとかはどうでも良くて、とりあえずの行動記録として。そういう記録行為のことを僕は「記憶の外部化」って呼んでいる。平たく言えば、覚えるのが苦手なのでメモに頼っているということ。そうやって外に頼ってるから、ますます記憶力が低下するのかも知れないけど(笑)。

若い頃の僕は自分の記憶力を過信していて、メモを取る人を内心でバカにしながら見ていた。けど、記憶ってとても曖昧で、どれほど記憶に自信があっても勘違いは有り得るし、ビジネスシーンにおいては、ほんの僅かな文言の変化でさえ致命的な伝達ミスになりかねない。社会人になりたての頃、先輩社員から何度も何度も繰り返し説教を受けて、それからメモを取るようになった。

あと、記録を取ることにはもう一つ大事な意味があると思っている。
行動した事実は、いつまで経っても変わることはない。けど、その時の心情は変わってしまうことがある。例えば「本を読んだ」という事実は不変であっても、その時に何を感じたか?は時間が経ったら二度と思い出せないかも知れない。
以前に自分が書いたブログを後で読み返してみると、「あの頃はそんな風に考えていたのか。今また同じ物事について考えを述べようとしても同じ文章は絶対に書けない」と思うことが多々ある。だから、ほんの些細なことでも、自分の心に留まった事柄はハッキリと形に残しておいた方が良いなと考えるようになった。始めたばかりだけど、noteは自分にとって丁度良いプラットホームだと感じている。

そうやって、僕の頭脳と心の外付けハードディスクは、日に日に容量を肥大化させていっている。


「ある男性が60年間毎日書き続けた日記を、ある日突然全て燃やしてしまったそうです。そしてまた、その日から同じように日記を書き始めました。彼の60年間は、いったいどこに消えてしまったのでしょうか?」
(映画「静かな雨」より)

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