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人と人との繋がりってなんだろうか?

どうしても同じ人とよく会うことがあります。

ある人は、大阪の箕面でしゃべっていたおじさんが、京都の東寺の門の前でバッタリ会いました。

私の友達の同僚のおじさんは、茨木市の市内で20回以上別々の場所で会いました。

親しい人ほど頻繁に会うものです。

仏教でいう縁起ですが、共産主義者に言わせるとそんなものは偶然であって、
仏教集団を経済的に維持するための作り話だという。

私の友達、2人は、一人は大阪市内で、もう一人は西宮に住んでいますが、あるとき沖縄旅行で沖縄で偶然出会いました。

これって不思議ではないですか?
ユングはこの現象をシンクロニシティ(共時性)という概念で説明しようとしています。

僕の友達は友達になる前に、友達はヴァイオリンで、私は合唱で以前に同じ演奏会に出ていたことに後で気づきました。

今は友達ではなくても後で友達になる人とすれ違っているのです。

花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ 井伏鱒二

これは人間関係を間違ってとらえています。

今は会っていなくても後々また人は会います。

皆さん自分は孤独だ、繋がりがないと思われるかもしれませんが、気づいてないだけで道ですれ違っていたりします。

最近無縁社会という本を読みました。孤独死する老人で、お墓も無縁仏になるという問題です。そういう人は死後、死んだ状態で発見されて、社会問題になっていますが、自分で選んだ生き方の延長線にある孤独死なので、現代の風景でしかありません。

自分で死ぬ時期は選べませんし、好きな人のそばで死ぬこともできません。
気がついたら昏睡状態であることに気づくべきです。

縁と無縁ということについて少し考えましたが、この不思議な現象は神という観念が起こる一つのきっかけでもあると思います。

神という言葉は関係性の概念です。一人では成立しません。
神という概念は、集団を一つにするために作られたのかもしれませんが、
私は一生、神は問題性だという笠原芳光先生の言葉を胸に考えていくつもりです。

長い文章につきあつてくださり有難うございました。
今日はこの辺で書き終わります。


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